飛び安里とは

2015年1月31日 カテゴリ:未分類


 

琉球王朝時代の鳥人=「飛び安里」

安里周當(あさと しゅうとう)は、琉球王家に代々つかえた花火職人の三代目です。首里鳥堀に生まれ、安里家の養子となって花火師の仕事を受け継ぎました。危険な火薬を扱う花火師は最先端の科学者として尊重された時代で、裕福な家系であったようです。
1800年に中国からの使者(冊封使)を迎えたときには、「松竹梅」の文字が現れる仕掛け花火を識名園で披露して、尚温王から褒章を受けました。
空を飛びたいという夢をいだき、飛行実験を繰り返した人物でした。大空への挑戦を続けた彼は、やがて「飛び安里」と呼ばれるようになりました。

 

南風原町の高津嘉山から飛行に成功

飛び安里はさまざまなタイプの飛行機を試作しましたが、はじめは失敗続きでした。改良に改良を重ねたのち、やがて鳥のように翼を羽ばたたかせる機体をつくりだしたと言われます。現代ではオーニソプターとよばれるタイプの飛行機です。数本の弓を支柱に取り付け、その上に翼を配置しました。強力な弓の弾力を補助として、脚力で翼を上下させたと伝えられています。(『資料集 飛び安里』より) 

ただし実際には羽ばたき機能はほとんど利用されず、大きな翼で風を受けることでグライダーのように滑空したのではないかと想像されています。翼幅9mにもなる大型の機体で、骨組みは軽くて丈夫な真竹が主材料でした。南風原町の高台である高津嘉山などの場所から飛行したとの言い伝えが残っています。

 
1999年には南風原町の町おこしグループが復元機で飛行。

飛び安里の機体は、1915年ごろまで子孫の家で保管されていました。しかし経年劣化や火事による消失で、機体も設計図も現在は残ってはいません。
やがて大正時代に飛び安里の存在が新聞で紹介されて以降、研究書や新聞記事などを通じて沖縄県民や航空関係者の間で「飛び安里」の名が少しずつ知られるようになりました。
さらに飛び安里が大きく注目を集めるようになったのは、1987年に沖縄三越で開催された「世界の鳥人 飛び安里200年展」がきっかけです。沖縄の偉人として再評価が始まりました。

1999年には南風原町の町おこしグループ「すきです南風原・夢・未来委員会」が、飛び安里の機体の想像図面をもとにして実物サイズのレプリカを製作し、実際に有人飛行に成功しました。同グループが2002年に製作した2分の1サイズのレプリカは、南風原町役場の1Fロビーに現在展示されています。

 
人類の有人飛行記録について。

人類の歴史上、大空への挑戦者はたくさんいました。後ウマイヤ朝のイブン・フィルナスによる飛行実験(9世紀後期)をはじめ、空を飛ぼうとした人物の話は数多くありますが、本当に飛べたと断定できる証拠はありません。明確な記録があるものとしては、1783年にフランスのモンゴルフィエ兄弟が熱気球を使って公開実験したのが、人類初の有人飛行とされています。
 

日本では、備前の国(現在の岡山県)の表具師である浮田幸吉(別名『鳥人幸吉』)が、1785年に自家製の飛行機で空を飛んだと言われていますが、これも伝承が残っているのみです。

飛び安里が初飛行したといわれる時期については「1780年」「1787年」など諸説あり、はっきりしません。もしも飛び安里が1780年に飛行に成功したのなら、モンゴルフィエ兄弟よりも早く、世界で初めて空を飛んだ人であった可能性もゼロではありません。
 

その後、1849年にイギリス人のケイリーがグライダーによる有人飛行に成功します。ドイツ人のリリエンタールはグライダーで2000回以上もフライトして有人飛行の実用化に道を開きました。1903年にはアメリカのライト兄弟が、エンジン付き飛行機で初飛行します。彼らの技術はたくさんの後継者によって受け継がれ、現代の航空機産業が発展しました。
残念ながら飛び安里の飛行技術は受け継ぐ者がなく、歴史の中に埋もれてしまいました。しかし飛び安里の功績と精神は、決して埋もれさせてはならないと思います。私たちの世代、そして私たちの子供の世代へと、飛び安里の夢とロマンと冒険心を伝えていきましょう。

 

「周冨」「周當」「周祥」、どれが本当の「飛び安里」?

飛び安里の機体や道具などは大正時代まで、図面は昭和初期まで残っていたことから、飛び安里が飛行機づくりに挑戦したことは間違いありません。飛行に成功したとの言い伝えも多数あります。しかしながら本当に飛んだのかというと、時代的・地域的な制約から、確実な記録は残っていないのが実情です。(ただし飛び安里への注目がもっと高まれば、埋もれていた新証拠が今後発見される可能性もあります。)

 

じつは「飛び安里」と呼ばれた人物についても諸説あります。安里家ニ代目の安里周冨(しゅうふ)が飛び安里であるとの説、三代目の周當(しゅうとう)だとする説、四代目の周祥(しゅうしょう)だとする説が存在します。
現在では、安里家の子孫による調べによって、三代目の周當が飛び安里であるとの説が有力視されています。
インターネット上には、周當と周祥の親子二代にわたって飛行に挑戦したと記載しているサイトもありますが、それはあくまで想像上のお話です。
 

飛び安里の性格や暮らしぶりも、飛んだとされる年代・場所も不明確なところがたくさんあります。でも、だからこそ歴史的な事実にしばられることが少なく、物語を自由につくりやすいと言うこともできます。脚本賞に応募するにあたっては、キャラクターやストーリーをさまざまに肉付けして、魅力あるヒーローとして新たな飛び安里像を創造してください。