南風原町の歴史遺産
ウルトラマンを創った男の一人「金城哲夫」
「ウルトラQ」「ウルトラマン」「ウルトラセブン」など円谷プロの人気番組の脚本家として活躍したのが、南風原町出身の金城哲夫です。統括的な立場のメインライターとして企画立案を担当し、ウルトラマンシリーズの方向性を決めるのに大きな影響を与えました。
沖縄に帰郷後は地元番組の制作や沖縄国際海洋博覧会のイベント演出などを手がけましたが、1976年、事故により37歳の若さでなくなりました。 南風原町にある生家の料亭「松風苑」では、当時の書斎を金城哲夫資料館として残しています。ウルトラマンシリーズのファンや、当時の制作スタッフや俳優仲間が今もよく訪ねてきます。
琉球王朝時代の鳥人「飛び安里(とびあさと)」
ライト兄弟による動力飛行の100年も前、琉球王朝時代に空を飛ぶことに成功した人物がいました。その名は「飛び安里」。飛び安里は多くの伝承をもって伝えられる人物で、「琉球王家お抱えの花火師だった」「中国の使者をもてなし松竹梅の文字を夜空に打ち上げた」などの伝え話から、18世紀後半の安里周當ではないかともいわれています。弓の弾力を補助にして、足を上下して鳥のように翼を上下して羽ばたいたといいます。
現在、南風原町役場には、復元機のレプリカ(1/2スケール)が展示されています。また飛び安里が飛んだとされる高津嘉山には「飛び安里初飛翔顕彰記念碑」が建てられています。
伝統を今に伝える歴史資産
沖縄戦では「鉄の暴風」とよばれるほど大量の砲弾が降り注ぎ、貴重な歴史遺産の多くが壊され失われました。戦災を逃れた建物や文化財は、琉球王朝時代からの歴史を伝える貴重な遺産です。南風原町内に今も残る史跡や有形文化財などをご紹介します。
本部の石獅子
集落を災いから守るフーチゲーシ(邪気返し)のためにつくられた石獅子。火山(ヒーガン)とされた八重瀬岳へ向けられています。大きな頭でとてもユニークかつ愛嬌のある顔をしていますが、昔から本部集落を守ってきた石獅子なのです。
照屋の石獅子
本部集落が八重瀬岳へ向けて石獅子をつくった結果、まるで照屋集落をにらむような格好になってしまい、照屋の人々は「本部の人たちはわざと照屋に石獅子を向けた」と勘違い。対抗して、本部をにらむ石獅子をつくったという伝承があります。かつての本部・照屋の関係を示す面白い文化財です。
宇平橋碑
1690年に完成した宇平橋は、琉球王朝時代に王府が建てた橋の石碑としては5番目に古いものです。沖縄戦で台座は破壊され、石碑本体表面には戦車のキャタピラの跡と思われる傷跡があるものの、奇跡的に割れずに残されました。完全な形状を有するものとしては最古の碑であり、南風原町の貴重な文化財として大切に保存、展示されています。※画像は石碑のレプリカです。
高倉
200年以上の歴史をもつ貯蔵庫。沖縄戦の激しい戦火もくぐりぬけてきました。現在も、屋根の支え木に砲弾跡が。戦前の屋根は茅茸だったそうです。上にはお米などの穀物が、下には、牛やヤギなどの家畜を飼育していたそうです。この歴史ある高倉、現在も管理する與座家の倉庫として使われています。歴史の語り部でありながら現役という貴重な存在です。
人面石
津嘉山の古い家屋の石塀に、人の顔が掘られた石があります。沖縄の丁字路や三叉路で魔物(まじむん)を撃退する役割の「石敢常(いしがんとう)」と同じ役割を担っているのではないかと言われています。
縦切石のひんぷん
沖縄の古い民家でよく見られる家屋入り口の目隠し「ひんぷん」。通常、石を横に積み上げているものを多く見かけると思いますが、ここ津嘉山には、「縦」に石を並べた「ひんぷん」があります。なぜ、縦に石を並べたのかについての理由はよく分かりませんが、その理由を考えるのも、散策の楽しみの一つです。
摩文仁(まぶに)家の墓
摩文仁家は第二尚氏尚賢王の第二子尚弘毅(大里朝亮)を大宗とする家系で、その墓は南風原町の大名にあります。朝亮は尚貞王の時代に摂政を務め、その功績を認められ墓を拝領したとされています。丘の中腹を掘って墓は造られており、 口は観音聞きで、墓室内には6本の石柱がたち、住居のような珍しい造りです。南風原町唯一の県指定文化財です。
大名(おおな)ヒージャーガー・石碑
大名にある共同井戸で、首里に向かう旧街道脇のヒージャーガービラと呼ばれる坂道にあります。井戸の口は直径1メートルの楕円形をしており、井戸の横には漢文で由来を記した石碑があります。旧街道を裏付ける現在唯一残っている井戸・石碑として、歴史的に貴重な文化財です。