南風原の野戦病院と瑞泉・梯梧学徒隊

2024年9月22日 カテゴリ:新着情報

(瑞泉学徒隊や梯梧学徒隊が動員されたナゲーラ壕は、沖縄自動車道・那覇インターチェンジの下にあったいわれる)

 10月12日は戦争の悲惨さや平和の大切さを伝え発信する「南風原町民平和の日」ですが、戦後80年近くが経過しても戦争について知られていないことがまだまだ多いかもしれません。例えば、沖縄戦で悲劇的な運命をたどった女子学徒といえば、黄金森の沖縄陸軍病院に動員された「ひめゆり学徒隊」(県立第一高等女学校と師範学校女子部)が有名ですが、沖縄戦ではほかにも多くの学徒が駆り出されました。

 南風原町では沖縄陸軍病院とは別に、第62師団野戦病院が字新川に設置され、瑞泉学徒隊(県立首里高等女学校4年生)61人が1945(昭和20)年1月に、梯梧学徒隊(昭和高等女学校4年生)17人が同年3月にそれぞれ配属されます。この野戦病院は「ナゲーラ壕」と呼ばれ人工の横穴壕ですが、学徒以外では軍医12人、衛生下士官40人、衛生兵などの兵士299人、看護婦20人らが働いていたといわれます。

 女子学徒たちは庶務・薬室勤務班と看護班、作業班に分けられました。作業班は未完成の壕を掘っていましたが、米軍上陸後は看護班に回されました。仕事内容は、手術時のローソク持ち、切断された手足や死体の処理、患者の包帯交換、糞尿の始末、飯上げ・水汲みなど多岐にわたります。当初は一日3交代でしたが、5月以降は交代なしの24時間勤務となります。また、この野戦病院には浦添に分室があり、本島中部の嘉数高地などで戦闘が激化すると、中部出身の女子学徒が浦添分室に派遣されました。前線の野戦病院に送り込まれた女子学徒は彼女たちだけだったといわれます。

 沖縄県平和祈念資料館が保存する戦争証言によれば、19歳で瑞泉看護隊を経験した女性がナゲ―ラ壕の状況を次のように振り返っています。

(首里高等女学校の犠牲者を祀る「ずゐせんの塔」) 

 「壕の中は血生ぐさかったです。血のにおいだけでなく患者の尿が漏れて土が湿って田んぼのように尿でベチョベチョになっていました。(中略)4月、5月の雨期でしたので、壕の中は蒸し暑く、その中で熱病が起こり、熱病にかかるとうなされます。負傷した人たち全員の包帯を交換する事ができませんでした。そうすると包帯がくっついてしまい固くなります。怪我をしたところを何日もそのままにして手当をしないでいると蛆がわいてきます。人間の体から蛆がわくっていうのを見たのはあの戦争の時だけです」

 NHK戦争証言アーカイブスによれば、ナゲ―ラ壕の野戦病院で負傷兵の手術を手伝った当時16歳の女性は次のように説明しています。

 「戦闘が激しくなると負傷兵は途切れることなく運びこまれてきた。手術では腕や足を切断し、無造作にバケツの中に投げ込んでいった。痛みを和らげる麻酔薬は無く、兵士たちは衛生兵に体を押さえられ叫び声を上げていた。『この世のものとは思えないほどの大きな声だった』。看護師たちもまた悲鳴を上げていた」

 壕内は元学徒たちが「地獄図」と表現しましたが、壕の外にいれば砲弾の雨が降り注ぎ命の危険にさらされていました。実際、壕内で収容しきれず、壕の外で担架に乗せられた負傷兵が治療の順番待ちをしていたところへ爆弾が落下し、多数の負傷兵とともに3人の学徒が亡くなることがありました。近くを流れる川が赤く染まったといいます。

(昭和高等女学校の犠牲者を祀る「梯梧之塔」) 

 戦況の悪化に伴い南部への撤退命令が出されると、糸満市の武富、伊原、米須などの壕へ移りますが、6月18日には解散命令が出されると、米軍に包囲され砲弾が飛び交う戦場に放り出され逃げ惑うことになります。最終的には瑞泉学徒隊では61人のうち33人が、梯梧学徒隊17人のうち9人が亡くなります。

 忘れてならないのは、沖縄戦ではこうした学徒たち以外にも多くの住民が戦争に駆り出されたことです。21校あった県内のすべての中等学校・師範学校から動員されました。女子は主に看護活動、男子は砲弾が飛び交う中で部隊の物資運び、伝令、電話線の修復に携わり、爆弾を背負って米軍戦車への自爆攻撃を命じられる人もいました。本島で動員された学徒2249人(うち女性391人)のうち、1415人(うち女子191人)が戦没しています。

(沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の両校で最も多くの犠牲者を出したガマの上に建てられた「ひめゆりの塔」)

 戦後琉球政府がまとめた資料によれば、本島と渡嘉敷村、座間味村では約2万2000人の住民が防衛隊召集を受けました。17歳から45歳までの男子に対して防衛隊員として軍人の資格を与えて補助兵力にしました。実際には15歳以下の児童生徒や60歳以上の老人まで動員されたといわれます。南風原からも、120人が野戦重砲第1連隊(勤務地・東風平村)に、150人が野戦重砲第23連隊(勤務地・南風原村や西原村など)に防衛隊召集されるなど、県内各地の部隊へ入隊しました。

 1944年10月から12月にかけて召集された防衛隊員は主に飛行場建設に投入されましたが、沖縄戦が始まると、前線への弾薬物資の運搬、食料・水の調達や運搬、負傷兵の搬送や死体の処理、地雷埋めや砲弾詰めなどの仕事を与えられ、戦闘要員として敵陣への夜間切り込み、対戦車肉弾攻撃に駆り出されることもありました。防衛隊員の約6割にあたる1万3000人が戦死したとみられます。

※参考文献

南風原町史第3巻 戦争編ダイジェスト版『南風原が語る沖縄戦』(南風原町史編集員会 1999年)

沖縄県平和祈念資料館『第7回特別企画展「沖縄戦における住民動員」』(2006年)

ひめゆり平和祈念資料館ホームページ(https://www.himeyuri.or.jp/