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ハロウインイベント㏌南風原2024

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表情豊かなシーサーを見に来ませんか

 最も人気が高い沖縄土産の一つがシーサーです。はえばる観光案内所でも、さまざまなシーサーを販売しています。表情や体形も多種多様です。獅子像がベースになり魔除け、邪気払いや守り神の役割を果たすとされるため、筋肉質の精悍な肉体にごつごつした目鼻立ちとギロリとした目が印象的なものが多い一方、恰幅のよい体に満面の笑顔を浮かべ、福を呼び込みそうなものも少なくありません。カラオケをしたり泡盛を味わったり、空手着姿やバスケットボールのユニフォーム姿といった変わり種もあります。ランプが中に入り室内の灯りとして使えるものもあります。

 最近はマスコットのようなものまで見受けられます。人によっては「これはシーサーではない」と否定したいかもしれませんが、そのような声が大きくなることはなくシーサーの許容範囲はかなり広いようです。屋敷の内外に飾る置物や彫刻だけでなく、企業やスポーツチームのイメージキャラクターなどにも幅広く活用されています。身近な家族、親類、仲間や地域を守ることを願う沖縄の人々の心がシーサー文化を育ててきたと分析する人もいます。

 起源は古代オリエントにあり、中国を経由して沖縄に伝わったとされ、一般的には次の3種類のシーサーがあるといわれます。

家獅子:門や屋根など屋敷内に置かれます

宮獅子:首里王府に関連し城などに置かれます

村落獅子:災厄から村落を守るため村の境界や高台に置かれます

(首里城の石獅子)

 南風原町には4つの村落石獅子があります。いずれも典型的な土産物や置物とは違った風貌をしていて、「鬼」に見えるという人もいます。伝承によれば、過去に集落間で対立した歴史を反映しているそうです。本部の石獅子は八重瀬を向いているという説もあれば、照屋を向いているという説もあります。これに対抗して照屋では石獅子がつくられたという言い伝えもあります。本部と照屋は井戸の水をめぐって争いが続いたからであり、兼城の石獅子は上間集落へ向けられ、上間は恐れの対象だったとされるそうです。

(本部の石獅子)

※参考資料

南風原町史編集委員会『南風原町史第6巻 民俗資料編 南風原 シマの民俗』(2003年)

南風原町教育委員会『南風原の文化財 文化財要覧第三集』(1991年)

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南風原の野戦病院と瑞泉・梯梧学徒隊

(瑞泉学徒隊や梯梧学徒隊が動員されたナゲーラ壕は、沖縄自動車道・那覇インターチェンジの下にあったいわれる)

 10月12日は戦争の悲惨さや平和の大切さを伝え発信する「南風原町民平和の日」ですが、戦後80年近くが経過しても戦争について知られていないことがまだまだ多いかもしれません。例えば、沖縄戦で悲劇的な運命をたどった女子学徒といえば、黄金森の沖縄陸軍病院に動員された「ひめゆり学徒隊」(県立第一高等女学校と師範学校女子部)が有名ですが、沖縄戦ではほかにも多くの学徒が駆り出されました。

 南風原町では沖縄陸軍病院とは別に、第62師団野戦病院が字新川に設置され、瑞泉学徒隊(県立首里高等女学校4年生)61人が1945(昭和20)年1月に、梯梧学徒隊(昭和高等女学校4年生)17人が同年3月にそれぞれ配属されます。この野戦病院は「ナゲーラ壕」と呼ばれ人工の横穴壕ですが、学徒以外では軍医12人、衛生下士官40人、衛生兵などの兵士299人、看護婦20人らが働いていたといわれます。

 女子学徒たちは庶務・薬室勤務班と看護班、作業班に分けられました。作業班は未完成の壕を掘っていましたが、米軍上陸後は看護班に回されました。仕事内容は、手術時のローソク持ち、切断された手足や死体の処理、患者の包帯交換、糞尿の始末、飯上げ・水汲みなど多岐にわたります。当初は一日3交代でしたが、5月以降は交代なしの24時間勤務となります。また、この野戦病院には浦添に分室があり、本島中部の嘉数高地などで戦闘が激化すると、中部出身の女子学徒が浦添分室に派遣されました。前線の野戦病院に送り込まれた女子学徒は彼女たちだけだったといわれます。

 沖縄県平和祈念資料館が保存する戦争証言によれば、19歳で瑞泉看護隊を経験した女性がナゲ―ラ壕の状況を次のように振り返っています。

(首里高等女学校の犠牲者を祀る「ずゐせんの塔」) 

 「壕の中は血生ぐさかったです。血のにおいだけでなく患者の尿が漏れて土が湿って田んぼのように尿でベチョベチョになっていました。(中略)4月、5月の雨期でしたので、壕の中は蒸し暑く、その中で熱病が起こり、熱病にかかるとうなされます。負傷した人たち全員の包帯を交換する事ができませんでした。そうすると包帯がくっついてしまい固くなります。怪我をしたところを何日もそのままにして手当をしないでいると蛆がわいてきます。人間の体から蛆がわくっていうのを見たのはあの戦争の時だけです」

 NHK戦争証言アーカイブスによれば、ナゲ―ラ壕の野戦病院で負傷兵の手術を手伝った当時16歳の女性は次のように説明しています。

 「戦闘が激しくなると負傷兵は途切れることなく運びこまれてきた。手術では腕や足を切断し、無造作にバケツの中に投げ込んでいった。痛みを和らげる麻酔薬は無く、兵士たちは衛生兵に体を押さえられ叫び声を上げていた。『この世のものとは思えないほどの大きな声だった』。看護師たちもまた悲鳴を上げていた」

 壕内は元学徒たちが「地獄図」と表現しましたが、壕の外にいれば砲弾の雨が降り注ぎ命の危険にさらされていました。実際、壕内で収容しきれず、壕の外で担架に乗せられた負傷兵が治療の順番待ちをしていたところへ爆弾が落下し、多数の負傷兵とともに3人の学徒が亡くなることがありました。近くを流れる川が赤く染まったといいます。

(昭和高等女学校の犠牲者を祀る「梯梧之塔」) 

 戦況の悪化に伴い南部への撤退命令が出されると、糸満市の武富、伊原、米須などの壕へ移りますが、6月18日には解散命令が出されると、米軍に包囲され砲弾が飛び交う戦場に放り出され逃げ惑うことになります。最終的には瑞泉学徒隊では61人のうち33人が、梯梧学徒隊17人のうち9人が亡くなります。

 忘れてならないのは、沖縄戦ではこうした学徒たち以外にも多くの住民が戦争に駆り出されたことです。21校あった県内のすべての中等学校・師範学校から動員されました。女子は主に看護活動、男子は砲弾が飛び交う中で部隊の物資運び、伝令、電話線の修復に携わり、爆弾を背負って米軍戦車への自爆攻撃を命じられる人もいました。本島で動員された学徒2249人(うち女性391人)のうち、1415人(うち女子191人)が戦没しています。

(沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の両校で最も多くの犠牲者を出したガマの上に建てられた「ひめゆりの塔」)

 戦後琉球政府がまとめた資料によれば、本島と渡嘉敷村、座間味村では約2万2000人の住民が防衛隊召集を受けました。17歳から45歳までの男子に対して防衛隊員として軍人の資格を与えて補助兵力にしました。実際には15歳以下の児童生徒や60歳以上の老人まで動員されたといわれます。南風原からも、120人が野戦重砲第1連隊(勤務地・東風平村)に、150人が野戦重砲第23連隊(勤務地・南風原村や西原村など)に防衛隊召集されるなど、県内各地の部隊へ入隊しました。

 1944年10月から12月にかけて召集された防衛隊員は主に飛行場建設に投入されましたが、沖縄戦が始まると、前線への弾薬物資の運搬、食料・水の調達や運搬、負傷兵の搬送や死体の処理、地雷埋めや砲弾詰めなどの仕事を与えられ、戦闘要員として敵陣への夜間切り込み、対戦車肉弾攻撃に駆り出されることもありました。防衛隊員の約6割にあたる1万3000人が戦死したとみられます。

※参考文献

南風原町史第3巻 戦争編ダイジェスト版『南風原が語る沖縄戦』(南風原町史編集員会 1999年)

沖縄県平和祈念資料館『第7回特別企画展「沖縄戦における住民動員」』(2006年)

ひめゆり平和祈念資料館ホームページ(https://www.himeyuri.or.jp/

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絣Tシャツが案内所にお目見え

 絣(かすり)に使われる図柄一覧を背中に印刷した丸正織物工房のTシャツがこのほど、はえばる観光案内所にお目見えしました。表には「RYUKYU KASURI」の文字が入っています。スミクロとバニラホワイトの2色があり、どちらの色も130(子供サイズ)は2200円(税込)、S~XLは2750円(税込)です。南風原町の伝統産業である絣をテーマにしているので、ご自分で着てもよし、ご友人やお知り合いへの贈り物にもご利用できます。このほか、以下のような絣関連商品を取りそろえています。一度はえばる観光案内所にいらっしゃってみませんか。

<琉球絣の歴史と特徴>

 遠くインドに源を発し、東南アジア各地に広がった絣が、琉球王府の大交易時代の波に乗って、沖縄に入ったのが、14、15世紀ごろです。以後、中国、日本や東南アジアの影響を受けながら、独自の絣が沖縄各地でつくられ、海を越えて薩摩絣、久留米絣、米沢琉球絣、伊予絣など日本の絣のルーツになったといわれます。

 琉球絣の大きな特徴は、およそ600種という多彩な絵柄です。これら爽やかな涼感を誘う幾何学模様の図柄は、琉球王府時代から伝わる「御絵図帳」をもとに、職人たちが現代の感覚を取り入れてオリジナルを作り上げてきました。

(丸正織物工房・手ぬぐい)

(琉球絣事業協同組合・化粧ポーチ)

(同・コースター)

(同・コースター)

(同・きものの根付)

(同・マスク)

(同・カードケース)

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ユニークな獅子舞の踊りや奉納行事 

(上の写真は首里城祭で演じられた宮平の獅子舞)

 宮平地区では宮平シーサー館(字宮平785‐1)で9月21日午後5時からの敬老会の後、「十五夜まつり」の中で演じられ、親獅子と子供獅子の計7つの演目を予定しています。『南風原町史第6巻 民俗資料編』では、その特徴を次のように述べています。

 「宮平の獅子舞の舞方は(中略)7種類ある。その中でも、カクジシリーと猿手は高い技術と強靭な体力を要求され、見応えがあるので最後に演じられた。各舞方に共通する技である『三方』は、獅子が上を向いたままの姿勢から急に早く歩み前方に跳び、獅子頭を前肢の間に入れて、すぐに上を向き獅子頭を突き出し、元の姿勢に戻る。以上の動作を正面、右、左の順にスピーディーに行う。『三方』は宮平独特の技であり、演技の始めと終わりに取り入れられる」

神里地区では「シーサーケーラシー」と呼ばれる獅子舞の奉納行事を9月12日~17日に実施します。12日と17日は午後7時ごろから公民館(神里構造改善センター)を出発し町内を拝んで回り、13日から16日まではお宮(上ノロ殿内)で奉納行事を行います。詳しくは公民館(098‐889‐4428)へ問い合わせてください。『南風原町史第6巻 民俗資料編』では「シーサーケーラシー」について次のように説明しています。

「子どもらが(今は区長はじめ字の役員ら)シーサーをかぶり、獅子を預かっている<田本>から<仲門>、<世理>、<新屋>、<野呂殿内>を拝んで、庭で反時計回りに三回ずつ廻り、お宮(上ノロ殿内)まで行く。各宗家では酒や食べ物を用意して待っており、獅子に拝みをして、酒を頭につけてやる。獅子頭を通して中にいる人に飲み物やお供えを食べさせたりする」

(上の写真は観光協会のまち歩きツアーで神里のシーサーを見学したときのもの)

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戦跡をテーマに第3回ガイド研修

 黄金森や津嘉山地域の戦跡をめぐる第3回ガイド研修が9月7日、開催され10人が参加しました。南風原文化センターの横を出発し、沖縄戦中は「飯あげの道」と呼ばれた道を通り沖縄陸軍病院南風原壕群まで歩きました。陸軍病院に看護動員されたひめゆり学徒隊(沖縄師範学校女子部・県立第一高等女学校の生徒)が2人1組になって大量の砲弾が降り注ぐ中、この道を炊事場から病院まで重い食料を担いで運びました。急な斜面を上がりながら、当時の学徒たちの苦労に思いをはせました。

 第二外科の中心的な壕として保存されている南風原壕群第20号では、ヘルメットをかぶり懐中電灯を持って中に入り、壕の中でどのような治療が行われ傷病兵たちの様子がどうだったかなどについて平和ガイドの方から説明がありました。この後、南風原文化センターを訪れ、沖縄戦から終戦まもない時期の南風原町に何が起こったか説明する展示を見学しました。

次にバスで津嘉山地域へ移動し、第32軍(南西諸島防衛軍)の津嘉山壕群が築かれたといわれる高津嘉山とチカシ毛に向かいました。ここには司令部が設置される計画でしたが、首里城地下に移転したため後方支援部隊が配備され2キロに及ぶ壕が建設されたとみられます。この後、住宅街を歩きながら、塀に残る沖縄戦の弾痕や町内に唯一残る高倉(穀物を貯蔵する高床式の建物)を見て回りました。

この日の参加者に対してアンケートを実施したところ5人から次のような回答を得ました。

○本日の研修はいかがでしたか。

  • 大変よかった(5人) ②よかった(0人) ③ふつう(0人)

④あまり良くなかった(0人) ⑤良くなかった(0人)

○ガイドの説明はいかがでしたか。

  • 大変よかった(5人) ②よかった(0人) ③ふつう(0人)

④あまり良くなかった(0人) ⑤良くなかった(0人)

・藤原さんの説明がわかりやすかったです。最後にバスの中で読み上げてくれた証言の読み聞かせも感動しました。

・藤原さんが文化センター内の説明をしてくださったので、発見がたくさんありました。

○今回のまち歩きをお客さまにツアーとして提供する場合に改善点がありますか。

 ・いいえ(4人)

平和ガイドのさいとうさんの説明が心に響く内容で良かったです。

  ・はい(1人)

  • トイレタイムを設けた方がよい
  • 飲物を取る時間を設定した方がよい

○その他、ご意見やご感想があれば記入してください。

  ・暑さ対策の注意点を示す。

  ・陸軍病院壕、文化センターの見学は今後もぜひやってほしいです。

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10月30日は世界ウチナーンチュの日

 10月30日、世界ウチナーンチュの日をご存じでしょうか。海外に住む沖縄県系人による「ウチナーネットワーク」を継承し発展させたいという願いを込め、2018(平成28)年「第6回世界ウチナーンチュ大会(★1)」の閉会式で制定が宣言されました。まだ歴史が浅い記念日ですが、ウチナーネットワークの基礎となった海外移民は100年を優に超える歴史があります。世界ウチナーンチュの日を機に、南風原出身者をはじめとした沖縄の人々が海外でどのような足跡をたどったか思いをはせてみましょう。

★1 世界ウチナーンチュ大会

1990年の第1回大会以来、5年に一度のペースで開催され、さまざまな交流イベントが企画されてきました。2022年の第7回大会には24か国2地域から約4000人が参加、来場者数の総数は43万人に達したしたとみられます(琉球新報HP 2023年3月29日公開)。

南風原から著名な実業家や天才賭博師

海外最大の日系社会が存在する(★2)といわれるブラジルに最初の移民船・笠戸丸が到着したのは1908(明治41)年です。781人の契約日本人移民が乗船し、うち沖縄県出身者が4割以上を占めました。中でも南風原村出身者は45人と他の市町村に比べ目立っていました(★3)。

その45人には、ブラジルにおける日本人歯科医第1号となった金城山戸(字津嘉山出身)や、天才賭博師として名をはせた「イッパチ」こと儀保蒲太(字津嘉山出身)がいます。山戸は歯科医の家と診療所の片付けの仕事をするうちにポルトガル語や歯科の専門知識を身につけ、イッパチはカードの腕を磨いてブラジルの賭博の世界で花形的存在となり自ら経営する賭博場を開くまでになります。

 また、1937(昭和12)年、9歳で移住した字宮城出身の与那嶺清照はパン屋の見習いなどから始めて菓子会社を設立。さらにパンやビスケット、インスタントラーメンの製造も手がけ、一代でブラジルを代表する食品企業に成長させました。

★2 海外最大の日系社会が存在する

外務省領事局政策課のHPは、ブラジルの日系人が270万人という推計値を紹介しています。

★3 南風原村出身者は45人と他の市町村に比べ目立っていました

南風原村出身者が多かった理由について『南風原町史第8巻移民・出稼ぎ編』は「沖縄移民総代(代表)が城間真次郎(字津嘉山)ということも無関係ではないが、移民会社に勤めていた金城栄礼(後に第6代南風原村長)の影響もあった」としています。

移民の苦悩を描いた『ノロエステ鉄道』

 しかし、華やかな脚光を浴びるのは移民のごく一部です。初期移民は配属されたコーヒー農園では、馬小屋のような労働者小屋をあてがわれ、銃を持った監視員が見張る中、慣れないコーヒー豆採取の仕事に追い立てられます(★4)。しかも、渡航前に聞かされた金額よりずっと少ない賃金しか手にできません。このため農園から逃げ出す者が相次ぎました。彼らは鉄道工夫、港の荷揚げ作業、家庭奉公人など農園とは別の仕事を探す一方、隣国の経済状況がよいと聞けばブラジルを出国する人もいました。『南風原町史第8巻移民・出稼ぎ編』によれば、笠戸丸の沖縄移民325人(★5)のうち半分に相当する162人(南風原出身者は11人)がアルゼンチンへ渡っています。

 このような「名もなき移民」をクローズアップしたのが、大城立裕の短編小説『ノロエステ鉄道』です。笠戸丸でブラジルに到着した沖縄移民の夫婦が主人公です。この夫婦も農園生活に耐えかねて逃亡した後は、ノロエステ鉄道の工事現場で工夫の仕事に就きます。同鉄道は南マットグロッソ州を東西に横断し隣接するサンパウロ州と結ぶために建設が進められ、農園労働に比べ高い賃金を得られます。100人を上回る日本人移民が働き、少なくとも南風原村出身者も5人(笠戸丸移民)が加わったといわれます。

ただ、重労働であり人里離れた場所での工事が多いため、主人公の妻は流産を繰り返し、ようやく授かった子供も医者にみせられず死なせるなどの代償を払います。それでも、蓄えた資金で雑貨店を営みますが、第二次世界大戦が始まると、連合国側についたブラジルでは反日感情がくすぶるようになり、この雑貨店は暴動で焼かれてしまいます。当時の沖縄移民がどのような状況に置かれていたか、この小説を書くにあたって大城立裕がどのような調査をしたか、主人公のモデルとなった夫妻がどのような足跡をたどったか、などについては県立図書館のホームページ「小説『ノロエステ鉄道』とブラジル・カンポグランデの沖縄県系人」(https://www.noroeste-brazil.okinawa/index.html)で詳しく記されているのでご覧ください。

★4 慣れないコーヒー豆採取の仕事に追い立てられます

国会図書館「ブラジル移民の100年」のHPには、「ブラジルでは1888年(明治21)5月に奴隷が解放され、労働力確保のため、ヨーロッパで移民誘致を行った。1892年(明治25)10月には日本人、中国人の移民も可とされ」とあります。ブラジルの農園では奴隷の代わりに移民を導入したため、労働者を「奴隷扱い」する習慣が抜けていなかったという指摘もあります。

★5 笠戸丸の沖縄移民325人

この数字は『ブラジル沖縄県人移民史』による。県移民統計では355人。

故郷を忘れなかった沖縄移民

 地域によって多少経済状況に差はあるものの、一般的に海外移民は決して裕福とは呼べませんでした。そんな中でも、故郷・沖縄への支援を続ける人は少なくありませんでした。『ノロエステ鉄道』のモデルとなった夫婦も苦境の中で沖縄の親類に何度か送金しています。南風原村出身の海外在留者は1933(昭和8)年、総数が709人、送金総額が1万490円、1935(昭和10)年には総数が590人、送金総額が1万6970円になります。これが現在どれほどの価値になるでしょうか。何を基準にするかによって異なりますが、日本銀行のHPに掲載されている企業物価指数では、現在の物価は1936(昭和11)年当時の800倍以上といいます。

 沖縄戦で故郷が甚大な被害を受けたと知ると、世界各地の沖縄移民たちは一致協力して救済活動を繰り広げます。南風原からハワイ・オワフ島への移住者とその家族は1948(昭和23)年、戦争で活動停止していた南風原村人会を再結成し、衣類や食料、寝具類、医薬品、ミシン、学用品など多種多様な救援物資を沖縄へ送りました。救援活動としては、1947(昭和22)年、食料難にあえぐ故郷を助けようとハワイ連合沖縄救済会が5万ドル(★6)の寄付を集めて購入した550頭の豚を送ったことは有名です。船に乗り込み嵐や機雷の恐怖にも負けず豚を沖縄に送り届けた県系人の物語はミュージカル「海から豚がやってきた」にもなりました。この豚のうち8,9頭は南風原村にも分配されました。また、沖縄戦で全壊した南風原小学校の再建のため南風原村が各国の南風原村人会に協力を呼びかけると、ハワイ、ブラジル、ペルー、アルゼンチンなどから多額の寄付が集まりブロック校舎が建設されました。

★6 5万ドル

当時の沖縄の公務員月給が25ドル(「海から豚がやってきた」記念碑建立実行委員会の説明文より)

沖縄移民の足跡をたどる旅

 本記事で触れた内容は、南風原出身者を中心とした沖縄移民の歴史のうちほんの一部にすぎません。もしご興味があれば、ご自身で資料や書籍にあたって知識や関心を深めてみてはいかがでしょう。沖縄移民の足跡をたどる旅になります。なぜ、移民たちは沖縄を離れなければならなかったか。なせ、異国にありながらも沖縄のことを思い支援を続けたのか。彼らの子孫は何を求めて沖縄に来るのか。こうした疑問に対する答えを探すことは、沖縄の重要な歴史を掘り起こすとともに、故郷と自身の関係をもう一度問い直すことになるでしょう。

 国内有数の移民送り出し県である沖縄県では、本記事で紹介した『南風原町史第8巻移民・出稼ぎ編』をはじめ多数の関係書籍が発行され、図書館などで気軽に閲覧することができます。南風原町にある沖縄県立公文書館(★7)では、米軍統治下の琉球政府が推進した計画移民に関する文書や写真に加え、沖縄救援活動に奔走し「ハワイに生きる」などの著作で知られる日系二世の比嘉太郎関連の文書、ハワイ日系社会の発展に尽力した湧川清栄関連の文書などを保存しています。

 南風原文化センター(★8)では、移民に関する展示コーナーがあり、ハワイ、北米、ペルー、ブラジル、アルゼンチン、ボリビアへの移民を紹介しています。第一回ハワイ移民や第一回ブラジル移民、そして現在の各国の南風原町人会の様子を展示しています。

★7 沖縄県立公文書館

南風原町字新川148番地の3 代表電話:098-888-3875 

★8 南風原文化センター

南風原町字喜屋武257番地 電話:098-889-7399

※参考文献

南風原町史編集委員会『南風原町史第8巻移民・出稼ぎ編 ふるさと離れて』(2006年)

県立図書館ホームページ「小説『ノロエステ鉄道』とブラジル・カンポグランデの沖縄県系人」(https://www.noroeste-brazil.okinawa/index.html)

沖縄県立公文書館だより第51号

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戦跡(陸軍病院南風原壕群20号と津嘉山地域)ツアー