※午前の部(コースター織)終了後に周辺のかすりの道をガイドさんと巡ります!!!!!!!
最も人気が高い沖縄土産の一つがシーサーです。はえばる観光案内所でも、さまざまなシーサーを販売しています。表情や体形も多種多様です。獅子像がベースになり魔除け、邪気払いや守り神の役割を果たすとされるため、筋肉質の精悍な肉体にごつごつした目鼻立ちとギロリとした目が印象的なものが多い一方、恰幅のよい体に満面の笑顔を浮かべ、福を呼び込みそうなものも少なくありません。カラオケをしたり泡盛を味わったり、空手着姿やバスケットボールのユニフォーム姿といった変わり種もあります。ランプが中に入り室内の灯りとして使えるものもあります。
最近はマスコットのようなものまで見受けられます。人によっては「これはシーサーではない」と否定したいかもしれませんが、そのような声が大きくなることはなくシーサーの許容範囲はかなり広いようです。屋敷の内外に飾る置物や彫刻だけでなく、企業やスポーツチームのイメージキャラクターなどにも幅広く活用されています。身近な家族、親類、仲間や地域を守ることを願う沖縄の人々の心がシーサー文化を育ててきたと分析する人もいます。
起源は古代オリエントにあり、中国を経由して沖縄に伝わったとされ、一般的には次の3種類のシーサーがあるといわれます。
家獅子:門や屋根など屋敷内に置かれます
宮獅子:首里王府に関連し城などに置かれます
村落獅子:災厄から村落を守るため村の境界や高台に置かれます
(首里城の石獅子)
南風原町には4つの村落石獅子があります。いずれも典型的な土産物や置物とは違った風貌をしていて、「鬼」に見えるという人もいます。伝承によれば、過去に集落間で対立した歴史を反映しているそうです。本部の石獅子は八重瀬を向いているという説もあれば、照屋を向いているという説もあります。これに対抗して照屋では石獅子がつくられたという言い伝えもあります。本部と照屋は井戸の水をめぐって争いが続いたからであり、兼城の石獅子は上間集落へ向けられ、上間は恐れの対象だったとされるそうです。
(本部の石獅子)
※参考資料
南風原町史編集委員会『南風原町史第6巻 民俗資料編 南風原 シマの民俗』(2003年)
南風原町教育委員会『南風原の文化財 文化財要覧第三集』(1991年)
南風原の野戦病院と瑞泉・梯梧学徒隊
(瑞泉学徒隊や梯梧学徒隊が動員されたナゲーラ壕は、沖縄自動車道・那覇インターチェンジの下にあったいわれる)
10月12日は戦争の悲惨さや平和の大切さを伝え発信する「南風原町民平和の日」ですが、戦後80年近くが経過しても戦争について知られていないことがまだまだ多いかもしれません。例えば、沖縄戦で悲劇的な運命をたどった女子学徒といえば、黄金森の沖縄陸軍病院に動員された「ひめゆり学徒隊」(県立第一高等女学校と師範学校女子部)が有名ですが、沖縄戦ではほかにも多くの学徒が駆り出されました。
南風原町では沖縄陸軍病院とは別に、第62師団野戦病院が字新川に設置され、瑞泉学徒隊(県立首里高等女学校4年生)61人が1945(昭和20)年1月に、梯梧学徒隊(昭和高等女学校4年生)17人が同年3月にそれぞれ配属されます。この野戦病院は「ナゲーラ壕」と呼ばれ人工の横穴壕ですが、学徒以外では軍医12人、衛生下士官40人、衛生兵などの兵士299人、看護婦20人らが働いていたといわれます。
女子学徒たちは庶務・薬室勤務班と看護班、作業班に分けられました。作業班は未完成の壕を掘っていましたが、米軍上陸後は看護班に回されました。仕事内容は、手術時のローソク持ち、切断された手足や死体の処理、患者の包帯交換、糞尿の始末、飯上げ・水汲みなど多岐にわたります。当初は一日3交代でしたが、5月以降は交代なしの24時間勤務となります。また、この野戦病院には浦添に分室があり、本島中部の嘉数高地などで戦闘が激化すると、中部出身の女子学徒が浦添分室に派遣されました。前線の野戦病院に送り込まれた女子学徒は彼女たちだけだったといわれます。
沖縄県平和祈念資料館が保存する戦争証言によれば、19歳で瑞泉看護隊を経験した女性がナゲ―ラ壕の状況を次のように振り返っています。
(首里高等女学校の犠牲者を祀る「ずゐせんの塔」)
「壕の中は血生ぐさかったです。血のにおいだけでなく患者の尿が漏れて土が湿って田んぼのように尿でベチョベチョになっていました。(中略)4月、5月の雨期でしたので、壕の中は蒸し暑く、その中で熱病が起こり、熱病にかかるとうなされます。負傷した人たち全員の包帯を交換する事ができませんでした。そうすると包帯がくっついてしまい固くなります。怪我をしたところを何日もそのままにして手当をしないでいると蛆がわいてきます。人間の体から蛆がわくっていうのを見たのはあの戦争の時だけです」
NHK戦争証言アーカイブスによれば、ナゲ―ラ壕の野戦病院で負傷兵の手術を手伝った当時16歳の女性は次のように説明しています。
「戦闘が激しくなると負傷兵は途切れることなく運びこまれてきた。手術では腕や足を切断し、無造作にバケツの中に投げ込んでいった。痛みを和らげる麻酔薬は無く、兵士たちは衛生兵に体を押さえられ叫び声を上げていた。『この世のものとは思えないほどの大きな声だった』。看護師たちもまた悲鳴を上げていた」
壕内は元学徒たちが「地獄図」と表現しましたが、壕の外にいれば砲弾の雨が降り注ぎ命の危険にさらされていました。実際、壕内で収容しきれず、壕の外で担架に乗せられた負傷兵が治療の順番待ちをしていたところへ爆弾が落下し、多数の負傷兵とともに3人の学徒が亡くなることがありました。近くを流れる川が赤く染まったといいます。
(昭和高等女学校の犠牲者を祀る「梯梧之塔」)
戦況の悪化に伴い南部への撤退命令が出されると、糸満市の武富、伊原、米須などの壕へ移りますが、6月18日には解散命令が出されると、米軍に包囲され砲弾が飛び交う戦場に放り出され逃げ惑うことになります。最終的には瑞泉学徒隊では61人のうち33人が、梯梧学徒隊17人のうち9人が亡くなります。
忘れてならないのは、沖縄戦ではこうした学徒たち以外にも多くの住民が戦争に駆り出されたことです。21校あった県内のすべての中等学校・師範学校から動員されました。女子は主に看護活動、男子は砲弾が飛び交う中で部隊の物資運び、伝令、電話線の修復に携わり、爆弾を背負って米軍戦車への自爆攻撃を命じられる人もいました。本島で動員された学徒2249人(うち女性391人)のうち、1415人(うち女子191人)が戦没しています。
(沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の両校で最も多くの犠牲者を出したガマの上に建てられた「ひめゆりの塔」)
戦後琉球政府がまとめた資料によれば、本島と渡嘉敷村、座間味村では約2万2000人の住民が防衛隊召集を受けました。17歳から45歳までの男子に対して防衛隊員として軍人の資格を与えて補助兵力にしました。実際には15歳以下の児童生徒や60歳以上の老人まで動員されたといわれます。南風原からも、120人が野戦重砲第1連隊(勤務地・東風平村)に、150人が野戦重砲第23連隊(勤務地・南風原村や西原村など)に防衛隊召集されるなど、県内各地の部隊へ入隊しました。
1944年10月から12月にかけて召集された防衛隊員は主に飛行場建設に投入されましたが、沖縄戦が始まると、前線への弾薬物資の運搬、食料・水の調達や運搬、負傷兵の搬送や死体の処理、地雷埋めや砲弾詰めなどの仕事を与えられ、戦闘要員として敵陣への夜間切り込み、対戦車肉弾攻撃に駆り出されることもありました。防衛隊員の約6割にあたる1万3000人が戦死したとみられます。
※参考文献
南風原町史第3巻 戦争編ダイジェスト版『南風原が語る沖縄戦』(南風原町史編集員会 1999年)
沖縄県平和祈念資料館『第7回特別企画展「沖縄戦における住民動員」』(2006年)
ひめゆり平和祈念資料館ホームページ(https://www.himeyuri.or.jp/)
絣(かすり)に使われる図柄一覧を背中に印刷した丸正織物工房のTシャツがこのほど、はえばる観光案内所にお目見えしました。表には「RYUKYU KASURI」の文字が入っています。スミクロとバニラホワイトの2色があり、どちらの色も130(子供サイズ)は2200円(税込)、S~XLは2750円(税込)です。南風原町の伝統産業である絣をテーマにしているので、ご自分で着てもよし、ご友人やお知り合いへの贈り物にもご利用できます。このほか、以下のような絣関連商品を取りそろえています。一度はえばる観光案内所にいらっしゃってみませんか。
<琉球絣の歴史と特徴>
遠くインドに源を発し、東南アジア各地に広がった絣が、琉球王府の大交易時代の波に乗って、沖縄に入ったのが、14、15世紀ごろです。以後、中国、日本や東南アジアの影響を受けながら、独自の絣が沖縄各地でつくられ、海を越えて薩摩絣、久留米絣、米沢琉球絣、伊予絣など日本の絣のルーツになったといわれます。
琉球絣の大きな特徴は、およそ600種という多彩な絵柄です。これら爽やかな涼感を誘う幾何学模様の図柄は、琉球王府時代から伝わる「御絵図帳」をもとに、職人たちが現代の感覚を取り入れてオリジナルを作り上げてきました。
(丸正織物工房・手ぬぐい)
(琉球絣事業協同組合・化粧ポーチ)
(同・コースター)
(同・コースター)
(同・きものの根付)
(同・マスク)
(同・カードケース)
ユニークな獅子舞の踊りや奉納行事
(上の写真は首里城祭で演じられた宮平の獅子舞)
宮平地区では宮平シーサー館(字宮平785‐1)で9月21日午後5時からの敬老会の後、「十五夜まつり」の中で演じられ、親獅子と子供獅子の計7つの演目を予定しています。『南風原町史第6巻 民俗資料編』では、その特徴を次のように述べています。
「宮平の獅子舞の舞方は(中略)7種類ある。その中でも、カクジシリーと猿手は高い技術と強靭な体力を要求され、見応えがあるので最後に演じられた。各舞方に共通する技である『三方』は、獅子が上を向いたままの姿勢から急に早く歩み前方に跳び、獅子頭を前肢の間に入れて、すぐに上を向き獅子頭を突き出し、元の姿勢に戻る。以上の動作を正面、右、左の順にスピーディーに行う。『三方』は宮平独特の技であり、演技の始めと終わりに取り入れられる」
神里地区では「シーサーケーラシー」と呼ばれる獅子舞の奉納行事を9月12日~17日に実施します。12日と17日は午後7時ごろから公民館(神里構造改善センター)を出発し町内を拝んで回り、13日から16日まではお宮(上ノロ殿内)で奉納行事を行います。詳しくは公民館(098‐889‐4428)へ問い合わせてください。『南風原町史第6巻 民俗資料編』では「シーサーケーラシー」について次のように説明しています。
「子どもらが(今は区長はじめ字の役員ら)シーサーをかぶり、獅子を預かっている<田本>から<仲門>、<世理>、<新屋>、<野呂殿内>を拝んで、庭で反時計回りに三回ずつ廻り、お宮(上ノロ殿内)まで行く。各宗家では酒や食べ物を用意して待っており、獅子に拝みをして、酒を頭につけてやる。獅子頭を通して中にいる人に飲み物やお供えを食べさせたりする」
(上の写真は観光協会のまち歩きツアーで神里のシーサーを見学したときのもの)