満田 かずほ
プロフィール
映画監督・演出家・プロデューサー。「ウルトラQ」以降、長年にわたり円谷プロ作品に参加。
発言内容
─ ご自身のテレビ局時代
僕はバイトのADやってたんですよ。
その時ね、ついてたドラマに金城哲夫が脚本を書くことになって、そのへんの頃かな?
ちょっと年代は定かじゃないんですけどもね、付き合いなんです。
たぶんね1960年ぐらいじゃないかなと思うんですけどね。
そのあと金城哲夫がTBSで他に2本ドラマの脚本書いてるんですけどね、偶然2本とも僕バイトのADでついてるんですよ。
─ 円谷時代 金城哲夫との仕事
(そしてその後満田さんは円谷に入社されるのですか?) そうですね、1964年ですね。
(そのときはディレクター?)いえいえ、助監督です。
(そのときはずっと金城は脚本の統括?) そうですね、自分でも脚本書いてましたし、企画を立ち上げたり、それから他の脚本家との連絡ですね。そういうことやってました。
(よく一緒に組んだりしたんでしょうか?) その組むという意味は監督と脚本家という意味ですか。それは「ウルトラマン」以降ですね。
残念ながら私は「ウルトラQ」で私、監督デビューさせてもらったんですが、「ウルトラQ」は2本しかやってないので金城哲夫とは組んでないんですよね。
─ 監督と作家 コンビでの仕事
えとサブタイトルで言いますか? リスト持ってくりゃ良かったな。
「ウルトラマン」では「謎の恐竜基地」「小さな英雄」この2本です。 「ウルトラセブン」ではかなりありますんで。
─ 渋谷での「行き違い事件」
(前に渋谷か銀座で待ち合わせした面白いエピソードがありましたよね?)ええ「行き違い事件」ですね。場所は渋谷なんですが。
「ウルトラセブン」の「ノンマルトの使者」っていうサブタイトルなんですけどね、その脚本を(金城に)書いてもらって。
それで第一稿が出来たぞってことでね。「読んでくれ」ってことになったんですよ。
それで私がね、別の仕事で渋谷のちょっと先の方のスタジオで声の録音をしなきゃいけない事があったんで。
それじゃ円谷プロが砧(きぬた)なんで、「中間とって渋谷で会おうか…。じゃせっかくだからビアホールで会おうかね」
当時はね、生ビールってのはね、そういうビアホールとか夏のビアガーデンぐらいでしか飲めなかったんですよ。今はどこへ行っても飲めますけどね。
「それじゃそこで待ち合わせしようってことで」 それが渋谷のビアホール。ちょっと屋号忘れましたけどね。
「じゃそこにしよう」って決めたんですが、渋谷に実は2軒あったんですね。同じ屋号のが。まあ、チェーン店らしいんですが。お互いに「A」っていう方、「B」っていう方、別の店に入っちゃったわけです。
で、今だったら携帯電話がありますから「どこにいるんだよ?」って繋がるんですけどね、当時はそういうものも無かったし。
お店の人に(尋ねて)「この屋号の店はここだけですよね?」「いや、もう一軒あります」
どうやら、同時に立ち上がってね、すれ違っちゃってるんですよね。
で、結局(原稿を)読むチャンスはなくて、こっちは「なんだよせっかく待ち合わせしたのに」って。金城哲夫も「なんだよ」って怒りながら帰って。
それで(金城は)「自分家に戻ってもう一回原稿を読んでみた」って。「そしたら面白くないんだよ」って言うわけ。それで「薪で燃やしちゃった」って言うわけ。書き直してくれたんですけど後々ね。
「たぶんね、出来が悪かったんでね、読んでほしくない原稿の魂が二人を会わせなかったんじゃないかな」って、金城哲夫らしい言い方をしてましたけどね。
今だったら携帯でね「どこだ?」って一発なんですけど。たぶんそういうエピソードも無かったと思うし。
それから後々 色々トークショーなんかでも語るんですけどね、金城哲夫は勝手に「面白くないんだよ」って自分で思ってただけでね、読ませてもらったら面白かったかもわからない。
だから現在ある「ノンマルトの使者」とはちょっと中身が違ってたかなと思うんですよね。
─ 1970年 沖縄での金城哲夫
1970年に、もう金城哲夫は沖縄に戻っちゃってて。それで(円谷から)東宝に出すゴジラ映画の企画書を書こうって事になってね。
当時の社長っていうか代表の円谷一が「じゃあ、金ちゃんに頼もうよ」ってことで、電話したんですよ。「企画書書いてよ」と。
そしたら当然ね、(金城)「原稿料は用意してあるだろう?」 (私)「もちろんだよ」って言ったら、「じゃあそれを使って、みっちゃん来いよ沖縄に。残ったやつ(金額)をくれ」と言うことなんですよね。
それで「じゃあ沖縄行くわ」ってことでね。
当時はね、今日持って来たんですけどね…。
日本から行くときね、こういう「身分証明書」っていうのが必要だったんですよ。まあ、パスポートの代わりですよね。
こういうのを取って、予防接種もしてね、それで沖縄に行きまして。それで5泊ぐらいしたんですかね。
それで当時金城哲夫はね、朝のラジオ番組のパーソナリティーをやってましてね。「モーニングパトロール?」でしたかね?
それであの、東京の情報とかね彼に話してね。ちょうど歩行者天国が始まった頃だったです。東京でね。その話をしたりとかね。色々、朝は僕も宿でラジオを聴いてて。
それで「打ち合わせがある」って言って、たいがいお昼過ぎにまた(金城と)出会うですけどね。
そうすると昼はね「まず昼寝しようよ」ってことで昼寝して。夕方になったら「海水浴に行こう」今度は海に行って。それで夜は飲みに行って。なかなか企画書を書いてもらえなくてね。
「大丈夫かな」って思ったんですけど、「なんとか間に合わせるから」ってことで5泊の間には書いてもらいましたけどね、それは楽しい思い出でしたね。
─ 円谷退社時の金城哲夫
寂しかったですよね。送別会(をやる事になり)みんな集まっての送別会じゃなくてね。
円谷英二宅でやってもらって、(参加者は)円谷英二ご夫妻…。…それから長男の円谷一監督、私、金城哲夫。これだけの小人数で、祖師谷の円谷英二宅でやっていただいて。
そのあと二人(私と金城)で銀座に飲みに行ってね。それで帰れなくなっちゃってね。金城が酔っ払って。
しょうがないので、私当時、清瀬市ってとこに住んでたんでね、そっちにもう連れてっちゃってね。うちに泊まってもらったことがありました。
─ 「金城哲夫=SFの申し子」エピソード
「ウルトラQ」っていうシリーズのときにね、サブタイトルは「ガラダマ」っていう作品なんですが、水上温泉の奥のほうにねシナリオハンティング、「どんな話ができるだろうか?」ってことでね、行ったんですよ。
作家の金城哲夫と、その時はまだ助監督でしたが、助監督の私と二人で、鬱蒼としたところに入っていったらね、(金城が)「役割を決めようか」と言うわけ。
「怪獣が出そうな気配がするもんで…。一人は怪獣をそのまま見守る。一人はどっかの消防団とか警察に連絡する…。それを今のうちに決めとこう」っていうことでね、まさにSF映画そのものなんですよ。