金城 和夫
プロフィール
金城哲夫の弟。料亭「松風苑」の支配人。
発言内容
─ 哲夫の想い出は?
そうですね、高校で玉川行ってますのでね。毎年は帰って来てないと思いますけども・・・。
何回か帰って来ると中学時代の友人達が遊びに来て、輪に加わった記憶はありますけれども。
僕の記憶では大きい声を出すし非常に元気があったし。
親子に近くなる位すごくかけ離れた歳ですので、大きな存在という感じでしたけれども。
那覇中から兄のおかげでそういうルートはありました。そのまま玉川に受験して高校、大学に行った訳ですけどもね。
─ 玉川学園の影響は?
玉川の創業の思想というのがあって兄には合ってたと思いますね。だから非常にのびのびと学校生活を送ったんだと思いますよ。玉川に行ってなければウルトラマンはこの世に存在していないと僕は思ってますのでね。
なぜかというと円谷英二さんの息子さんも玉川行ってて、その上原輝男先生がおられて哲夫をかわいがって、シナリオ教えて。卒業したら円谷が立ち上がるから、そこ行ったらどうだという事で設定になってますからね。
─ 玉川学園入学のきっかけは?
非常に教育熱心なおふくろでしたので小原先生の書いた本「母のための教養学」とかいろいろあるんですよたくさん。そういうの読んでたんじゃないかなぁと気がするんですよね。
うちのおやじも大正時代の人ですけれども、東京の麻布獣医大学に行ってますから、とにかくやりたければ行きたければ行きなさいという風潮ですから。
─ 松風苑はその頃始まって?
兄貴も帰って家族も帰って来て、一緒に商売の手伝いしながら、兄貴はテレビの仕事がはじまったりして。百名の方にもレストランを作って私もこちらでやるようになってという事で。
─ お父さんは?
三味線も弾くし踊りも少しはやるし、多趣味ですね。非常にいい思いをした人生じゃないかと私は思ってますね。
─ どんなお母さん?
2年ぶりにきたお客さんがすぐ名前がでるくらい商売人だったみたいですからね。そういう意味では義足はきながらよく働いてましたよ。
いろいろかわいがられて哲夫よりかわいがられてたと自分では思ってますけどね。どっちかと衝突してたんですよ、兄貴とは。なんかよくわからんけれど物ははっきり言うし、よく喧嘩もするんだけど、まず長男という事で、大事にはしたと思うんですけど。
模合をやっていて、親しいお友達二人をいれて、それが潰れちゃって。二人分の模合を全部最後まで払いきって。
それで苦労もしながら、吉屋チルーのお金もどんどん出ていくし。大変な時期もあったみたい。僕は東京で学校出てるし。それから精神的な苦労もあって、何かいろいろ重なったんでしょうね。
いつも着物きて隠してますから、足は。一段落すると脱いで枕にしてましたけれども。
もう着物姿ですね。かどやの階段でもじゃんじゃん下りたり登ったり大変だと思うけれども、よく働いてましたね。
だから兄の死が相当ショックだったんじゃないかなと思うんです、私は。心臓麻痺ですからね。風邪こじらせて、リウマチも患って、それが飛んだのか。ほんとあっという間だったんで。
─ 松風苑を引き継いで
サラリーマンしてましたけど結局、京一郎が大阪の修行から帰ってきて。割烹やま川で2年近く修行して、再出発しようという事で、大きく借入して内部改装してスタートの時に僕も会社やめて。丁度40才ですかね。10年間サラリーマンして辞めて。一緒にやろうという事で始めたんですけど。
丁度平成元年ですから、もう30年前ですよね。
とにかく、よくすき焼き一本で。京一郎来るまではすき焼きしか出来ませんから。年中それだけでやっていくのは大変ですよね。よく持ちこたえたなと思ってるんですけど。
京一郎帰って来てそういう懐石料理とかいろんなのが出せるようになったから、それだけ資金を借り入れして内部改装して始めようという事で。
─ 哲夫さんの生家と知られて?
その頃は知ってる人が少なくて。20年以内ですよね、徐々にこうやって金城哲夫を知られるようになって。
ここ2・3年ですけども訪ねる人がとても多くなってるんですよ。訪ねてくる方が。いつも言ってるんだけど、55歳前後の最初に見た人たちがその影響を受けたという事で。
僕にしてみれば4・5歳の時に見た事を、50歳にもなった人がね、こうやって訪ねて来るという事自体がね、不思議だなと思って。皆さんは「あれはただの子供番組じゃなくて、とても影響受けましたよ」という話を。僕自身が見てないもんだから。丁度、高校生・大学生ですから。
普通は亡くなれば1・2年もたてば忘れ去られるのに、40年たってもこうやって人が訪ねてくること自体が異常だなと思うんだけども。影響を受けた人たちが沢山いらっしゃる。沖縄行ったら訪ねようということでいらっしゃる訳ですから。
訪ねてくる人見てると普通じゃないですよ、本当に。すごい所に来たと思ってね。手を合わせる人もいるし涙ぐむ人もいるし。本当に特別な思いでここにきてるんだなぁと思って見てますけどね。
必ず一緒に写真を撮って下さいと。弟ですけどね。
結果的にすごい仕事してたということですよね。兄貴もまさかこんなに亡くなった後に人が訪ねて来てると思ってないでしょうし。一生懸命やった甲斐があったと思いますけども。
─ 和夫さんにとっての哲夫さんは?
もうあんまり月日が経ち過ぎて、おぼろげですけれども。とにかく豪快な優しい兄貴でしたからね。だったと思います。元気な姿しか思い浮かばないし。
たまに朝のトヨタモーニングパトロールを、朝のあれは早かったんで6時くらいに家を出ないといけなかったのかな。前の晩遅くまで酒を飲んでたら酒残ってるからちょっと運転してくれという事で頼まれて、何回か連れて行った事があるんですよ。RBCまで。そういう思い出です。