金城哲夫の生涯
金城哲夫は、沖縄県南風原町出身の脚本家です。『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』など、円谷プロ初期の特撮番組のメインライターとして大きな役割を果たしました。
沖縄芝居の脚本、テレビ・ラジオの司会、沖縄国際海洋博覧会セレモニーの企画・演出などでも活躍しました。
南風原町で育ち、東京で番組制作に関わる
幼少時~高校・大学時代
1938年生まれ。生地は東京ですが、生後すぐ親とともに帰郷して、沖縄県の南風原町で子供時代を過ごします。6歳のときに沖縄戦を体験しました。
中学卒業後に上京し、高校・大学は玉川学園で学びます。高校生の時に「日金友好協会」なる金星の研究をするSFクラブを結成しました。「玉川学園沖縄慰問隊」を友人たちと組織して総勢17名の高校生でアメリカ統治時代の沖縄を訪問したこともあります。この当時からリーダーシップと行動力を発揮していました。
円谷英二との出会い。映画『吉屋チルー物語』の制作
大学3年生のころ「特撮の神様」と呼ばれた円谷英二との出会いがあり、円谷氏の主催する研究所に参加しました。1961年ごろからテレビ番組の脚本づくり・企画づくりに関わり始めました。
その後一時的に沖縄に戻り、沖縄の役者を使った映画『吉屋チルー物語』を自主制作し、1963年に完成させます。
1963年4月、設立されたばかりの円谷プロに入社しました。
ウルトラマンシリーズが大ヒット
円谷プロの企画文芸室長になった金城は、『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』などの番組で、さまざまなスタッフの意見・アイデアを取り入れながらも、企画書のほとんどをまとめあげました。
テーマ、物語の方向性、ウルトラマン・怪獣・登場人物の設定など、金城が創りあげた路線にしたがってウルトラシリーズが制作されました。 円谷英二の「ヒーローを宇宙人にしたい」という意見をはじめ、「もっと怪獣を増やしたら」「こんな宇宙人を出してみたい」といった様々なスタッフの意見を活かしながら、金城は次々と夢のあふれる物語を仕上げていきました。
監督・脚本家・デザイナーなどのまとめ役に
円谷プロの企画文芸室の長として、ウルトラマンシリーズ制作の中核メンバーとして活動しました。円谷英二監督やTBSのプロデューサーからもなくてはならない人物として信頼を集めていました。
シリーズの企画概要を多くの脚本家に説明してプロット(物語の梗概)を寄せてもらい、それをもとにどんなエピソードを実際に制作していくかを考えるシリーズ構成者としての役割を担い、自身でも脚本を書きました。
毎回登場する怪獣についての特徴、ネーミングなどについても積極的にアイデアを出し、時には怪獣のデザインにも自身や脚本家たちのアイデアを伝えるパイプ役を務め、バラエティに富むウルトラマンシリーズの魅力の構築に尽力しました。
魅力あふれる脚本を数多く書き上げました
たくさんのスタッフと打ち合わせして指示を出す忙しい日々の中で、金城自身も多くの脚本を書き上げました。
「地球をあなたにあげます」と言わせようとするメフィラス星人と、それを拒否するサトル少年の会話劇が印象的な『ウルトラマン』第33話『禁じられた言葉』。
今の人類が、じつは過去に先住民を追い出して地球を征服した侵略者だったのかもしれないというスケールの大きなSFドラマである『ウルトラセブン』第42話『ノンマルトの使者』。
そのほかにも、名作と呼ばれ現在でも人気の高い脚本の多くを金城が手がけています。
金城たちの作品は「怪獣ブーム」「ウルトラブーム」と呼ばれる社会現象をまき起こしました。シリーズ放映時間には、テレビを見るため銭湯から子供たちの姿が消えるとまで言われました。
初期ウルトラシリーズの監督の一人であった実相寺昭雄氏は、沖縄出身の金城が番組制作の中心的役割を果たしたことを讃えて「ウルトラマン。本籍地、沖縄。やはり、私は、こう記入したい」という言葉をエッセイ集の中に残しています。
沖縄へ帰郷。沖縄芝居やテレビ・ラジオなどで活躍
沖縄へ帰郷
『ウルトラセブン』の終了後、円谷プロでは『マイティジャック』『怪奇大作戦』など番組の視聴率は低下、円谷プロ経営の悪化と問題が起きました。
1967年、大城立裕氏が『カクテル・パーティー』で芥川賞を受賞したことに感化された金城は、沖縄を題材にした小説を書きたいと、思いがつのるようになりました。また「本土復帰を沖縄の地で迎えたい」という願いもあって、1969年に円谷プロを退社しました。
沖縄芝居やテレビ・ラジオなどで活躍
沖縄へ帰郷後、ふるさとの文化や歴史を猛勉強し、沖縄芝居の劇団の座付作者になり、実家のすきやき料亭を手伝いながら、脚本執筆にはげみました。
琉球王朝を築いた若き尚巴志を描いた『佐敷の暴れん坊』等を執筆し、本土の演劇要素を取り入れた新しいスタイルの沖縄芝居として役者たちにも影響を与えました。
琉球放送(RBC)にて金城は、ラジオドラマの執筆、ラジオの『トヨタモーニングパトロール』のキャスターやテレビ番組の司会者等もつとめました。
沖縄国際海洋博覧会のセレモニーに関わる
1975~1976年に開催された沖縄国際海洋博覧会のセレモニーの企画・演出も担当しました。金城が考えた演出は、世界七つの海から汲んできた海水を博覧会会場に設置された一つの入れ物に注ぐという内容でした。
沖縄から世界へ発信する海洋博覧会セレモニーの舞台で、人類は海で一つにつながっているというメッセージを打ち出しました。
希望に向かって燃焼し続けた金城哲夫
平和を願い、沖縄国際海洋博覧会の演出に熱を入れる等、金城は仕事に奮闘していました。
また、「沖縄を題材にした物語を書きたい」という希望も強く、構想をノートにつづっていましたが、過度の飲酒で体調に影響をきたし、葛藤と悩みが激しくなっていきました。体調悪化の最中も、金城は執筆の手をゆるめず、書き続けていました。
1976年2月23日、酔った状態で2階の書斎へ窓から入ろうとし転落、3日後の26日に脳挫傷のため37歳でこの世を去りました。
金城哲夫は、誰も思いつかないような斬新な発想、豊かなSF的素養、人情やユーモアを取り入れた物語で、日本中の人々の心をつかむ作品を数多く残した人でした。