金城 源氏郎

金城哲夫アーカイブ

金城 源氏郎

プロフィール

金城哲夫の次男。現在は沖縄県内でホテルに勤務。

発言内容

─ お父さんとの思い出は?

そんなに沢山、思い出どころではなくて。まあ当時6歳だったのであの時に。この津嘉山の部落のなかで、父に連れられて、多分無理やり乗せられたんでしょうね。馬で部落内の散歩したっていう記憶があります。
あの、私の中では多分、こけてますね。多分振り落とされたんだと思います。それで地面になんか転んでぶつけたような記憶があります。
あとは散歩してる途中途中の方々によく挨拶してましたね。そんな記憶はありますね。「こんにちは!」とか。

─ 源氏郎さんの中でのお父さん像は?

徐々に父が37歳で他界した歳に近づけば近づくほど、なんて若い時に亡くなったんだと。
そういう中で、父が東京に行って20代前半から亡くなるまでの間、本当にこの凝縮した短い間の中で、一生懸命、時を生きてきたんだなという事しか今は僕は感じる事ができないですね。

─ 沖縄芝居は好きですか?

沖縄芝居は好きです。一度、何年前でしたか。15・6年前なんですけど「一人(ちゅい)豊見城」という芝居があって。それに島正太郎さんでしたかね、そういう方がいらっしゃった時に出していただいたんです、芝居に。
松風苑の2階のホールが練習場になっていて、そこで、もう1シーンだけでしたけどね、ちょび役で出して頂いた事があります。その時にタイムスか新報か分かりませんけれども「一人豊見城」の出演者という所で名前が載ってるのがすごく嬉しいなという記憶があります。
その時は「ああ芝居っていいな」って心から本当に思いましたね。
父が本当に共通語と方言っていうのの、本当にジレンマにあって、本当に僕は沖縄の人間だったということをアピールするにはほんとに方言ばっかりだったので。自分も方言っていうのを100パーセント分かるわけではないですから。

─ お父さんの記憶

ドライブの記憶は1回だけあります。ちょうど百名の方にビーチがありまして、そこで父と一緒にドライブに行って。よく思い出しました。
父が離れていたときに私がサイドブレーキを引いてしまったみたいです。それで車が動いてしまって、父がなんとか助けてくれて、かなり叱られた記憶っていうのを覚えてます。
連れてっていって頂いたと思いますね。家では父のひざに甘えた記憶はありますね。

─ アーカイブの活用について

今もなおウルトラマンっていう名前を基に金城哲夫っていう名前があるっていうのは、私としてもすごく嬉しいことですし、継承していきたいなって思っています。
一つ一つこういった記録を残すことによって後世に伝えたり、南風原っていうのはこんないい所だったんだよっていうのを、一部かもしれませんが、感じさせる事ができたらすごくいい事なんじゃないかなって思います。