



8月10日、「絣コースター織り体験と工房見学のまち歩きツアー」を実施し、11人が参加しました。琉球かすり会館に集合した後、参加者は二つのグループに分かれ、一方のグループが絣コースター作りを体験し、もう一方のグループは琉球絣に関するDVDを鑑賞しました。コースター作り体験グループは、自分の好みの絣デザインを選び織り機の前に座りました。足を使いながら手で糸を通し織り込む作業に参加者たちは最初、戸惑っていましたが、かすり組合員らのアドバイスを受けるうちにコツを飲み込み、次第に浮かび上がるデザインに顔をほころばせていました。コースターを完成させた参加者たちは、できばえをじっと見つめたり友人たちと見せ合ったりする一方、もう一つのグループがコースター作りに取り組みました。

全員が自作のコースターを手にすると、会館を出て「かすりの道」を散策しました。途中の壁面には、絣に使われる図柄模様が描かれ、自分がコースター作りに選んだ図柄を見つけると、その前で記念写真を撮ったり図柄の意味をガイドに質問したりしました。次に訪れた丸正織物工房では、経験を積んだ職人たちの作業を見学し、工房の担当者から織りあげた反物について説明を受けました。近くのイジュンガー公園では、絣の染料に使われる樹木が植えられているため、ガイドがこれらの樹木の利用法について話をしました。参加者は最後に琉球かすり会館に戻ってアンケートを記入し解散となりました。


アンケートでは以下のような感想が寄せられました。
・全部素晴らしかった。特に大城さんと話せたことはうれしい。
・工房で絣について詳しく説明してくれたところは面白いと思った。
・南風原町の絣文化は深い歴史があり、その伝統を学べてうれしい。
・自分で織るという貴重な体験ができて楽しかったです。
・工房も見学することができてとても勉強になりました。


10月12日は何の日かご存じですか。「南風原町民平和の日」です。1946(昭和21)年10月12日、南風原村役所の業務が地元(現・南風原小学校)で再開されたのにちなみ制定されました。毎年、関連イベントを開催し戦争や平和について考える機会になっています。観光協会では9月14日、陸軍病院壕や津嘉山地域を訪れる戦跡ツアー、10月12日には兼城まち歩きツアーを実施します。詳しくは6月24日投稿の「2024年度まち歩きツアー予定表」をご覧ください。
南風原町の歴史を語る上で沖縄戦は避けて通れません。当時の住民のうち4割以上が戦災で亡くなったといわれます。なぜ、そのように多くの犠牲者を出すことになったのでしょうか。
南風原町は本島南部では交通の要衝にあたるため、前線に対する後方支援部隊が数多くすべての集落に部隊が駐留します。重要拠点には野戦重砲、高射砲、機関砲などが設置されます。南西諸島を守る第32軍の司令部壕といえば首里城地下が知られていますが、当初は南風原町津嘉山に建設する計画でした。司令部機能が首里へ移転した後は、軍事物資や軍資金を管理する部隊(司令部経理部)が配備されます。証言などによれば壕の長さは全長2キロに及んだといわれます。
また、字喜屋武(黄金森)や字兼城(現在の役場北側)などに壕が掘られ、沖縄陸軍病院が移転します。ここでは看護補助要員としてひめゆり学徒220人余りが動員されます。1945(昭和20)年4月1日、米軍が沖縄本島に上陸した後は、負傷兵が激増し女子学徒たちは医療器具や医薬品、食料が不足する中、凄惨な治療現場で懸命に働きます。陸軍病院に撤退命令が出されると、重症患者に青酸カリが配られ「自決」が強要されます。

同年5月に入ると、前線からの敗走兵や本島中部からの避難民が町内に目立つようになります。5月27日夜から29日にかけて、首里から摩文仁へ移動する途中の牛島司令官ら軍幹部が津嘉山の経理部壕に滞在しますが、司令部の撤退に気づいた米軍が大砲や艦砲で津嘉山に集中砲火を浴びせ一帯は焼け野原になります。一般兵士や住民も一日橋、宇平(山川)橋や兼城十字路に殺到します。南部への主要な避難経路だったためですが、米軍はこれらの橋や十字路を狙って砲弾の雨を降らせます。死体の山が築かれることになり、後に「死の橋」「死の十字路」と呼ばれるようになります。『那覇市史』や『南風原町史』には次のような証言があります。
「(われわれ師範隊は)夕暮れ、降りしきる雨の中を識名を通って一日橋を渡り東風平村志多伯で一泊した。もちろん昼は壕にひそみ夜になって行軍するのである。一日橋を渡るのはそれこそ命がけであった。首里方面から南部への退却路は一日橋と真玉橋しかないのである。米軍はこの二つの橋に照準を合わせて、それこそ四六時中砲弾の雨を降らしていた。五月の長雨と砲弾により掘りかえされた道路はそれこそ泥の海でひざまでつかった。橋の手前で待機し、ドカンドカンと炸裂すると同時にソレッとばかり飛び出し、一目散に駆け抜けるのである。そうしないと次のドカンでたちまちやられてしまうのである。幸い、一人の犠牲者もなく全員一日橋を通過した。途中、るいるいと折り重なる屍体をふみわけて進んだり、幼い子どもや老人、負傷した兵が泥の中で助けを求めてすがりついてくるのであるが、どうすることもできなかった」

「(字本部に陣地を置いた通信隊の)撤退は5月の末ギリギリで、米軍が黄金森の山の上に立ち並んでいるのがみえた。我々の壕は入口を周囲から土石でふさいでいった。死の橋と言われた山川橋の周辺から約1キロ半は、後から通る人が死体を道路の端にどけるので、死体が土手のように道端に積み重なった状態が続いていた。陸軍病院壕からの撤退が始まったらしく、たくさんの傷病兵が南へ向かっていた。手や足を切断された人までが地面を這っていた。それは地獄絵図のようだった」(字本部の通信隊に配属された14歳の男子学徒)
「本部を後にして山川にさしかかったときに、山川の人がいたので、『小さい子どもを連れて行くのは大変なので、ここに一晩泊めてください』と頼んだら、『ここの壕はいっぱいだから入れることはできない。早くあっちに逃げろ。敵にみつかったら俺たちもやられる。』と言って追い返されました。私はこの言葉にとてもショックを受けました。いまだにこの言葉を忘れることが出来ません。それから、どこへ逃げていいのか、どうしたらいいのかわからずにそこをウロウロしていました。山川橋のところもたくさんの人が死んでいました。橋も壊されていたので人間を積んで、みんなは橋のように渡っていました。もう、逃げ惑うのが先で他のことを考える余裕もありませんでした」(南部へ避難する字本部出身の女性)
※参考文献:
南風原町史第3巻 戦争編ダイジェスト版『南風原が語る沖縄戦』(南風原町史編集員会 1999年)
南風原町史第9巻 戦争編本編『戦世の南風原 語る のこす つなぐ』(南風原町史編集委員会 2013年)

「黄金森自然散策とクイズのまち歩きツアー」を7月20日、黄金森公園で開催しました。遊歩道沿いに生えるオオハマボウ(ユウナ)、オオバギ、クワズイモ、オオタニワタリ、月桃(サンニン)、アカギなどの植物の特徴や見分け方、取り扱う場合の注意点について説明がありました。大きなクモ、カマキリ、トカゲなどを見つけると、子供たちは興味深そうに観察していました。途中、町内から太平洋までを見渡せる眺望も楽しみました。また、遊歩道は沖縄戦では、陸軍病院壕と炊事場を結ぶ道「飯上げの道」として、動員された女子学徒らが食料などを運ぶために利用したことが伝えられました。最後に、黄金森のイシジャー山にある拝所「上の獄(うぃーぬたき)」を訪れました。香炉の近くには、地表に露出した巨大な琉球石灰岩に樹木の根がからみつくなど独特な景観があり、参加者は沖縄の伝統的な聖地の雰囲気に触れることができました。









第2回ガイド研修が7月13日、南風原文化センターで開催され12人が参加しました。この日は字与那覇地域ガイドの新垣敏氏が「与那覇の歴史と伝説」をテーマに講師を務めました。まず、与那覇地区が戦後劇的に変化したことについて語り、かつては与那原の浜の波音が聞こえるほど静かだったエピソードを紹介しました。
また、地元に語り継がれる浦島伝説の主人公、ウサンシー(穏作根子)の屋敷跡といわれる「御殿小」や、ウサンシーが眠ると伝わる「ウサン嶽」などについて写真をまじえながら説明しました。県外の浦島伝説とも比較しながら、与那覇と同じく海のない地域でも浦島伝説が残ることに触れました。このほか、トーマの御嶽、ノロ殿内、与那覇グスクなどの聖地・遺跡や、綱引きといった伝統行事についても詳しく解説しました。

この日の参加者に対してアンケートを実施したところ、11人から次のような回答を得ました。
・与那覇グスク北方の石畳の説明(存在理由)
・馬場跡の場所
・基礎的な知識(沖縄に関すること、南風原のこと、地域のこと)がまったく足りないことが分かりました。
・場所の案内だけでなく、歴史的な人物や森、川(海)、過去と現在とのかかわりの中で、今も御嶽が残っていることを知ったから
・写真もたくさんあったし、前回聞けなかった部分が聞けた
・著名な箇所や人物の様子など参考にできた
・与那覇の地理的側面、考古学的な遺跡、遺物などの事例を詳しく説明されたので、大変興味深く聞くことができました。講師の方の深い知識とユーモアをまじえた話が大変参考になりました
・ウサンシー伝説について理解が深まった
・歴史的背景がよくわかる
・学びたい気持ちが高まったから
・アーカイブ的に過去と現在および、他の地域との比較をしながらの説明は、イメージに残りやすく、与那覇地区の浦島伝説は記憶に残った。ありがとうございました。
・約1時間半、実際に歩いて見て回った感じがした。実際に歩かなくても、現地に行った感じがした。
・講師のプロフィールも紹介してほしい。
・神谷さんの説明がとても分かりやすくて、ありがたいです。ありがとうございました。
・基本的な概説書や参考文献などがあれば教えてください。 第2回ガイド研修が7月13日、南風原文化センターで開催され12人が参加しました。この日は字与那覇地域ガイドの新垣敏氏が「与那覇の歴史と伝説」をテーマに講師を務めました。まず、与那覇地区が戦後劇的に変化したことについて語り、かつては与那原の浜の波音が聞こえるほど静かだったエピソードを紹介しました。
また、地元に語り継がれる浦島伝説の主人公、ウサンシー(穏作根子)の屋敷跡といわれる「御殿小」や、ウサンシーが眠ると伝わる「ウサン嶽」などについて写真をまじえながら説明しました。県外の浦島伝説とも比較しながら、与那覇と同じく海のない地域でも浦島伝説が残ることに触れました。このほか、トーマの御嶽、ノロ殿内、与那覇グスクなどの聖地・遺跡や、綱引きといった伝統行事についても詳しく解説しました。
この日の参加者に対してアンケートを実施したところ、11人から次のような回答を得ました。
・与那覇グスク北方の石畳の説明(存在理由)
・馬場跡の場所
・基礎的な知識(沖縄に関すること、南風原のこと、地域のこと)がまったく足りないことが分かりました。
・場所の案内だけでなく、歴史的な人物や森、川(海)、過去と現在とのかかわりの中で、今も御嶽が残っていることを知ったから
・写真もたくさんあったし、前回聞けなかった部分が聞けた
・著名な箇所や人物の様子など参考にできた
・与那覇の地理的側面、考古学的な遺跡、遺物などの事例を詳しく説明されたので、大変興味深く聞くことができました。講師の方の深い知識とユーモアをまじえた話が大変参考になりました
・ウサンシー伝説について理解が深まった
・歴史的背景がよくわかる
・学びたい気持ちが高まったから
・アーカイブ的に過去と現在および、他の地域との比較をしながらの説明は、イメージに残りやすく、与那覇地区の浦島伝説は記憶に残った。ありがとうございました。
・約1時間半、実際に歩いて見て回った感じがした。実際に歩かなくても、現地に行った感じがした。
・講師のプロフィールも紹介してほしい。
・神谷さんの説明がとても分かりやすくて、ありがたいです。ありがとうございました。
・基本的な概説書や参考文献などがあれば教えてください。

-1-724x1024.jpg)
-2-724x1024.jpg)
-1-724x1024.jpg)


21年ぶりに開催される津嘉山大綱曳き(7月27日・28日)の準備作業として7月7日、綱打ち(大綱づくり)が実施されましたが、南風原町観光協会ではこの綱打ち作業を応援するボランティアツアーを開催しました。
集合場所のはえばる観光案内所に一般参加者7人が集合した後、小型バスで津嘉山保育園の駐車場まで移動。14世紀末から15世紀初めにかけての頃、長嶺按司と仲間按司の戦いがありましたが、この時の死者の遺骨を祀ったといわれる「東の御嶽」を訪れた後、「高港屋敷跡」や「馬場跡」に立ち寄り、霊石が安置された「ビズル(賓頭盧)」へ行きました。続いて、綱打ち作業の現場である津嘉山公民館に入り、稲藁を束にする作業を手伝いました。
午前11時過ぎから南風原高校の生徒たちが教師に引率され応援隊に加わり始めました。生徒たちも、地域のお年寄りにコツを教えてもらいながら、稲藁の束づくりをしました。最終的には、南風原高校からは生徒30人、引率教師2人が参加しました。午後3時からは津嘉山地域振興資料館で、カナチ棒や東西の旗頭など綱曳きに関する資料や道具を見て綱曳きの歴史を学びました。

続いて、大屋・西あしびなーに行き、歴史上の人物に扮した者「シタク」を乗せる台や旗頭など西の綱曳きに関する道具が制作される現場を訪れました。ちなみに、この台を多くの者たちが竹の棒で持ち上げ支える方式は、沖縄の他の綱引きにはない特徴的な点とされます。この後、村の草分け家の跡に設けられた祭祀場である「殿小」に立ち寄りました。ノロ殿内・東あしびなーでは、東の綱曳きに関する道具を制作する工程を見学しましたが、同じ「シタク」を乗せる台も東と西では作り方が異なる点にツアー参加者は関心を寄せていました。また、21年ぶりの大綱曳きのため、道具づくりの大半は見よう見まねであることが、担当者から語られました。再び津嘉山保育園の駐車場に戻ると、小型バスではえばる観光案内所まで移動し解散となりました。

