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好みの模様を選び絣織りに挑戦!

かすりの道歩きや工房見学も

8月24日、「絣コースター織り体験と工房見学のまち歩きツアー」を実施し、5人が参加しました。参加者は琉球かすり会館でまず絣コースター作りに挑戦。自分の好きなデザインを選び織り機の前に座りました。足を使いながら手で糸を通し織り込む作業に最初、戸惑っていましたが、会館スタッフらのアドバイスを受けるうちにコツを飲み込み、次第に浮かび上がるデザインに顔をほころばせていました。完成すると自作の絣コースターの手触りやできばえを味わっていました。

会館を出てガイドから絣の歴史について説明を受けた後、「かすりの道」を散策しました。途中、付近に生える植物を観察したり壁面に描かれた絣の図柄模様に目をとめたりしました。イジュンガー公園では、絣の染料に使われる樹木が植えられていることから、これらがどのように利用されるか学びました。丸正織物工房では、経験を積んだ職人による織りを見学し、作業の具体的な手順や完成した製品の特徴などを教えてもらいました。最後に琉球かすり会館に戻ってアンケートを記入し解散となりました。

アンケートでは以下のような回答が寄せられました。

〇コースの中で良いと思った箇所について

・今まで興味はあったが、なかなか1人では見学に行きにくい所(会館、工房)を体験できてよかった。

・かすり会館での体験もまち歩きも工房も全部よかった。

・工房

・工房での見学が楽しかった。

・かすりについて学べた。

〇ご感想・ご要望について

・工房の方の実演をしながらの説明、伝統を次の世代へつなげていく心構えなどを詳しく聞けてよかった。

・織りを体験することによってその大変さを理解し工房に行き話を聞いたので、絣のすごさが分かりました。伝統を維持・継承していくことは大変ですね。

・作り手が減っている現状をお聞きできてよかった。伝統をつないでいく難しさ、絣の素晴らしさがわかった。

・染色の木が本部の公園に植えられていることを初めて知りました。とてもよかったです。

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沖縄陸軍病院の実相を読む

9月にまち歩きツアーを開催

 沖縄戦についてはさまざまな視点から数多くの書籍が出版されていますが、沖縄陸軍病院南風原壕はたびたび取り上げられてきたテーマの一つです。社会の歪みは弱者に集約されるといわれるように、陸軍病院は壮絶な沖縄戦の縮図と化しました。重傷を負った兵士が次々と運び込まれて院内にあふれかえり、食料や医薬品、医療器具が絶対的に不足する中、軍医や看護婦、看護補助要員(ひめゆり学徒隊)は治療の現場で奔走します。沖縄戦を学ぶ上では避けては通れない「歴史」であり、その実相に触れておきたいところです。当協会では9月にガイド研修やまち歩きツアーで沖縄陸軍病院南風原壕を訪れますが、これを機会に関連する書籍の中から主なものをいくつかご紹介しましょう。

 長田紀春・具志八重編『閃光の中で ―沖縄陸軍病院の証言―』(1992年 ニライ社)は、サブタイトルにもあるように陸軍病院の勤務経験者による証言集です。全301ページです。看護婦たちが壮絶な治療現場を語ります。

 「一番辛かったのは両手両足がなく、スイカになった兵の姿を見ることであった。前線から担架や背負われて担ぎ込まれる血だらけの負傷兵の姿は凄惨の度を極めていた。上衣の袖ごと上肢がちぎれた人、両足のない人、『看護婦さんいたいよう』『殺してくれ』の泣き声やうめき声が終日聞こえ、まるで地獄のようだった。二段ベッドの床隅には毎日のように手術で切り落とされた上肢や下肢が10本以上も置かれていた。女師、一高女の学徒(県立女子師範学校と県立第一高等女学校の生徒、ひめゆり学徒隊)も、初めは恐怖のあまり卒倒するものもいたが、後からは『この大根はどこへ捨てましょうか』と言うようになっていた」

1945(昭和20)年5月下旬、南部への撤退命令が出されると、自力で歩けない患者に対して青酸カリを配布し(ミルクに溶かして服用)「自決」を迫ります。重傷を負って治療中だった衛生兵は次のように振り返ります。

「背の高い軍医中尉が来られて、『これから病院は南部へ移動することになったが、独歩患者のみしかつれて行けない。担送患者も護送患者もそのまま残ってもらわねばならなくなった。それでこの薬を飲んで名誉の戦死をした方がよいか、捕虜になった方がよいか、よく考えて自分で決めるように』と言われて、ミルクのようなものが入った湯呑みが配られました。湯呑みを投げ捨てる者もいましたが、重傷の人でどうしても無理だと思った人は飲んでいる様子でした」

上官の命令に背いて青酸カリ入りミルクの配布をしなかった衛生兵や、ミルクを飲むことを拒否した重傷患者がいる一方、別の資料によれば、強制的にミルクを飲ませた軍関係者グループがいたとする証言もあります。当時、軍医見習士官だった長田紀春氏は次のように説明します。

 「陸軍病院が大量の青酸カリを前々から用意していたことは、軍医部等の上層部の命令で、最悪の場合をかねてから考慮してのことであろうが、やはり個々の患者の苦痛を少なくするというよりも、軍の体面や秘密の保持を考え、玉砕精神を励ますのが目的だったと言っていいだろう」

 どれくらいの人たちが自決したのでしょうか。長田氏は南風原の第一外科だけでも「歩ける患者を除くと約400名位の数の重傷者がいたと推測されるし、その患者が青酸カリによる自決に追い込まれたと思われる」と見ています。自決を決意するのは患者だけではありません。同年6月中旬に病院解散命令が下されると、本島南部では青酸カリを服用して自殺しようとする衛生兵や、手りゅう弾で自決しようとした看護婦も現れました。

 ひめゆり平和祈念資料館が出版した『沖縄陸軍病院看護婦たちの沖縄戦』(2005年)は、2005年に開催された同名の企画展の内容を1冊にまとめています。展示と同じく時系列に沿って「1 1945。5 沖縄陸軍病院のあゆみ」「2 1944.11~ 沖縄陸軍病院への召集」「3 1945.3 南風原にて」「4 1945.5 南部撤退」「5 1945.5.26 撤退後の南部」「6 1945。6.18 陸軍病院解散と死の彷徨」の6部からなります。全47ページ、解説文や証言文は簡潔にまとめられ写真や図が多いので、気軽に手にとりやすい構成です。

 南風原文化センターが発行した『沖縄陸軍病院南風原壕群』(2007年)は全26ページとコンパクトにまとめられ比較的短い時間のうちに沖縄陸軍病院の概要をつかめます。同書によれば、病院壕は黄金森の中央部につくられた本部壕、23本ほどの壕からなる第一外科、7本の壕からなる第二外科、3本の患者壕があった第三外科で構成されたと思われます。現在公開されているのは、第二外科の中心であり手術場も設けられた20号壕です。

 『沖縄陸軍病院南風原壕』(2010年 高文研)は吉浜忍氏や池田榮史氏ら専門家の手によってまとめられました。沖縄陸軍病院の変遷だけでなく、沖縄戦の概略・経緯に加え、南風原町内(当時は村)の戦災状況にも触れています。本書で特徴的なのは、高校生ら若者による町内の字別戦災調査や、病院壕の文化財指定・保存活用の取り組みなど、沖縄戦の記憶や記録をいかに次世代に引き継ぐかに多くの紙面を割いている点です。20号壕を整備しガイド養成講座を実施して公開にこぎつけた経緯もたどっています。全172ページです。

 池田榮史著『沖縄戦の発掘 沖縄陸軍病院南風原壕群』(2019年 新泉社)は、南風原壕群を考古学的視点から捉え、写真や図を交えながら各壕の調査や保存の状況を解説しています。

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絣コースターづくりを体験!

かすりの道歩きや工房見学も

 8月10日、「絣コースター織り体験と工房見学のまち歩きツアー」を実施し、11人が参加しました。琉球かすり会館に集合した後、参加者は二つのグループに分かれ、一方のグループが絣コースター作りを体験し、もう一方のグループは琉球絣に関するDVDを鑑賞しました。コースター作り体験グループは、自分の好みの絣デザインを選び織り機の前に座りました。足を使いながら手で糸を通し織り込む作業に参加者たちは最初、戸惑っていましたが、かすり組合員らのアドバイスを受けるうちにコツを飲み込み、次第に浮かび上がるデザインに顔をほころばせていました。コースターを完成させた参加者たちは、できばえをじっと見つめたり友人たちと見せ合ったりする一方、もう一つのグループがコースター作りに取り組みました。

 全員が自作のコースターを手にすると、会館を出て「かすりの道」を散策しました。途中の壁面には、絣に使われる図柄模様が描かれ、自分がコースター作りに選んだ図柄を見つけると、その前で記念写真を撮ったり図柄の意味をガイドに質問したりしました。次に訪れた丸正織物工房では、経験を積んだ職人たちの作業を見学し、工房の担当者から織りあげた反物について説明を受けました。近くのイジュンガー公園では、絣の染料に使われる樹木が植えられているため、ガイドがこれらの樹木の利用法について話をしました。参加者は最後に琉球かすり会館に戻ってアンケートを記入し解散となりました。

 アンケートでは以下のような感想が寄せられました。

・全部素晴らしかった。特に大城さんと話せたことはうれしい。

・工房で絣について詳しく説明してくれたところは面白いと思った。

・南風原町の絣文化は深い歴史があり、その伝統を学べてうれしい。

・自分で織るという貴重な体験ができて楽しかったです。

・工房も見学することができてとても勉強になりました。

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南風原町で沖縄戦を考える

9月に戦跡ツアー、10月に兼城ツアー

10月12日は何の日かご存じですか。「南風原町民平和の日」です。1946(昭和21)年10月12日、南風原村役所の業務が地元(現・南風原小学校)で再開されたのにちなみ制定されました。毎年、関連イベントを開催し戦争や平和について考える機会になっています。観光協会では9月14日、陸軍病院壕や津嘉山地域を訪れる戦跡ツアー、10月12日には兼城まち歩きツアーを実施します。詳しくは6月24日投稿の「2024年度まち歩きツアー予定表」をご覧ください。

 南風原町の歴史を語る上で沖縄戦は避けて通れません。当時の住民のうち4割以上が戦災で亡くなったといわれます。なぜ、そのように多くの犠牲者を出すことになったのでしょうか。

 南風原町は本島南部では交通の要衝にあたるため、前線に対する後方支援部隊が数多くすべての集落に部隊が駐留します。重要拠点には野戦重砲、高射砲、機関砲などが設置されます。南西諸島を守る第32軍の司令部壕といえば首里城地下が知られていますが、当初は南風原町津嘉山に建設する計画でした。司令部機能が首里へ移転した後は、軍事物資や軍資金を管理する部隊(司令部経理部)が配備されます。証言などによれば壕の長さは全長2キロに及んだといわれます。

また、字喜屋武(黄金森)や字兼城(現在の役場北側)などに壕が掘られ、沖縄陸軍病院が移転します。ここでは看護補助要員としてひめゆり学徒220人余りが動員されます。1945(昭和20)年4月1日、米軍が沖縄本島に上陸した後は、負傷兵が激増し女子学徒たちは医療器具や医薬品、食料が不足する中、凄惨な治療現場で懸命に働きます。陸軍病院に撤退命令が出されると、重症患者に青酸カリが配られ「自決」が強要されます。

 同年5月に入ると、前線からの敗走兵や本島中部からの避難民が町内に目立つようになります。5月27日夜から29日にかけて、首里から摩文仁へ移動する途中の牛島司令官ら軍幹部が津嘉山の経理部壕に滞在しますが、司令部の撤退に気づいた米軍が大砲や艦砲で津嘉山に集中砲火を浴びせ一帯は焼け野原になります。一般兵士や住民も一日橋、宇平(山川)橋や兼城十字路に殺到します。南部への主要な避難経路だったためですが、米軍はこれらの橋や十字路を狙って砲弾の雨を降らせます。死体の山が築かれることになり、後に「死の橋」「死の十字路」と呼ばれるようになります。『那覇市史』や『南風原町史』には次のような証言があります。

 「(われわれ師範隊は)夕暮れ、降りしきる雨の中を識名を通って一日橋を渡り東風平村志多伯で一泊した。もちろん昼は壕にひそみ夜になって行軍するのである。一日橋を渡るのはそれこそ命がけであった。首里方面から南部への退却路は一日橋と真玉橋しかないのである。米軍はこの二つの橋に照準を合わせて、それこそ四六時中砲弾の雨を降らしていた。五月の長雨と砲弾により掘りかえされた道路はそれこそ泥の海でひざまでつかった。橋の手前で待機し、ドカンドカンと炸裂すると同時にソレッとばかり飛び出し、一目散に駆け抜けるのである。そうしないと次のドカンでたちまちやられてしまうのである。幸い、一人の犠牲者もなく全員一日橋を通過した。途中、るいるいと折り重なる屍体をふみわけて進んだり、幼い子どもや老人、負傷した兵が泥の中で助けを求めてすがりついてくるのであるが、どうすることもできなかった」

 「(字本部に陣地を置いた通信隊の)撤退は5月の末ギリギリで、米軍が黄金森の山の上に立ち並んでいるのがみえた。我々の壕は入口を周囲から土石でふさいでいった。死の橋と言われた山川橋の周辺から約1キロ半は、後から通る人が死体を道路の端にどけるので、死体が土手のように道端に積み重なった状態が続いていた。陸軍病院壕からの撤退が始まったらしく、たくさんの傷病兵が南へ向かっていた。手や足を切断された人までが地面を這っていた。それは地獄絵図のようだった」(字本部の通信隊に配属された14歳の男子学徒)

 「本部を後にして山川にさしかかったときに、山川の人がいたので、『小さい子どもを連れて行くのは大変なので、ここに一晩泊めてください』と頼んだら、『ここの壕はいっぱいだから入れることはできない。早くあっちに逃げろ。敵にみつかったら俺たちもやられる。』と言って追い返されました。私はこの言葉にとてもショックを受けました。いまだにこの言葉を忘れることが出来ません。それから、どこへ逃げていいのか、どうしたらいいのかわからずにそこをウロウロしていました。山川橋のところもたくさんの人が死んでいました。橋も壊されていたので人間を積んで、みんなは橋のように渡っていました。もう、逃げ惑うのが先で他のことを考える余裕もありませんでした」(南部へ避難する字本部出身の女性)

※参考文献:

南風原町史第3巻 戦争編ダイジェスト版『南風原が語る沖縄戦』(南風原町史編集員会 1999年)

南風原町史第9巻 戦争編本編『戦世の南風原 語る のこす つなぐ』(南風原町史編集委員会 2013年)

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黄金森で動植物を観察

自然散策とクイズのまち歩きツアーを開催

 「黄金森自然散策とクイズのまち歩きツアー」を7月20日、黄金森公園で開催しました。遊歩道沿いに生えるオオハマボウ(ユウナ)、オオバギ、クワズイモ、オオタニワタリ、月桃(サンニン)、アカギなどの植物の特徴や見分け方、取り扱う場合の注意点について説明がありました。大きなクモ、カマキリ、トカゲなどを見つけると、子供たちは興味深そうに観察していました。途中、町内から太平洋までを見渡せる眺望も楽しみました。また、遊歩道は沖縄戦では、陸軍病院壕と炊事場を結ぶ道「飯上げの道」として、動員された女子学徒らが食料などを運ぶために利用したことが伝えられました。最後に、黄金森のイシジャー山にある拝所「上の獄(うぃーぬたき)」を訪れました。香炉の近くには、地表に露出した巨大な琉球石灰岩に樹木の根がからみつくなど独特な景観があり、参加者は沖縄の伝統的な聖地の雰囲気に触れることができました。

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与那覇の歴史と伝説をテーマに第2回ガイド研修を開催

 第2回ガイド研修が7月13日、南風原文化センターで開催され12人が参加しました。この日は字与那覇地域ガイドの新垣敏氏が「与那覇の歴史と伝説」をテーマに講師を務めました。まず、与那覇地区が戦後劇的に変化したことについて語り、かつては与那原の浜の波音が聞こえるほど静かだったエピソードを紹介しました。

 また、地元に語り継がれる浦島伝説の主人公、ウサンシー(穏作根子)の屋敷跡といわれる「御殿小」や、ウサンシーが眠ると伝わる「ウサン嶽」などについて写真をまじえながら説明しました。県外の浦島伝説とも比較しながら、与那覇と同じく海のない地域でも浦島伝説が残ることに触れました。このほか、トーマの御嶽、ノロ殿内、与那覇グスクなどの聖地・遺跡や、綱引きといった伝統行事についても詳しく解説しました。

 この日の参加者に対してアンケートを実施したところ、11人から次のような回答を得ました。

  • 本日の講座はいかがでしたか?
    • よく理解できた(8人) ②まあまあ理解できた(2人) ③あまり理解できなかった(1人)
  • 分かりにくかった箇所があれば、教えてください。

・与那覇グスク北方の石畳の説明(存在理由)

・馬場跡の場所

・基礎的な知識(沖縄に関すること、南風原のこと、地域のこと)がまったく足りないことが分かりました。

  • 今回の講座の内容は、実際のガイドに活用できそうですか?
    • 大いに活用できる(8人) ②活用できる(3人) ③あまり活用できない(0人) ④活用できない(0人)
  • その理由を教えてください。

・場所の案内だけでなく、歴史的な人物や森、川(海)、過去と現在とのかかわりの中で、今も御嶽が残っていることを知ったから

・写真もたくさんあったし、前回聞けなかった部分が聞けた

・著名な箇所や人物の様子など参考にできた

・与那覇の地理的側面、考古学的な遺跡、遺物などの事例を詳しく説明されたので、大変興味深く聞くことができました。講師の方の深い知識とユーモアをまじえた話が大変参考になりました

・ウサンシー伝説について理解が深まった

・歴史的背景がよくわかる

・学びたい気持ちが高まったから

  • その他、ご意見、ご感想、質問などがあればご記入ください

・アーカイブ的に過去と現在および、他の地域との比較をしながらの説明は、イメージに残りやすく、与那覇地区の浦島伝説は記憶に残った。ありがとうございました。

・約1時間半、実際に歩いて見て回った感じがした。実際に歩かなくても、現地に行った感じがした。

・講師のプロフィールも紹介してほしい。

・神谷さんの説明がとても分かりやすくて、ありがたいです。ありがとうございました。

・基本的な概説書や参考文献などがあれば教えてください。 第2回ガイド研修が7月13日、南風原文化センターで開催され12人が参加しました。この日は字与那覇地域ガイドの新垣敏氏が「与那覇の歴史と伝説」をテーマに講師を務めました。まず、与那覇地区が戦後劇的に変化したことについて語り、かつては与那原の浜の波音が聞こえるほど静かだったエピソードを紹介しました。

また、地元に語り継がれる浦島伝説の主人公、ウサンシー(穏作根子)の屋敷跡といわれる「御殿小」や、ウサンシーが眠ると伝わる「ウサン嶽」などについて写真をまじえながら説明しました。県外の浦島伝説とも比較しながら、与那覇と同じく海のない地域でも浦島伝説が残ることに触れました。このほか、トーマの御嶽、ノロ殿内、与那覇グスクなどの聖地・遺跡や、綱引きといった伝統行事についても詳しく解説しました。

この日の参加者に対してアンケートを実施したところ、11人から次のような回答を得ました。

  • 本日の講座はいかがでしたか?
    • よく理解できた(8人) ②まあまあ理解できた(2人) ③あまり理解できなかった(1人)
  • 分かりにくかった箇所があれば、教えてください。

・与那覇グスク北方の石畳の説明(存在理由)

・馬場跡の場所

・基礎的な知識(沖縄に関すること、南風原のこと、地域のこと)がまったく足りないことが分かりました。

  • 今回の講座の内容は、実際のガイドに活用できそうですか?
    • 大いに活用できる(8人) ②活用できる(3人) ③あまり活用できない(0人) ④活用できない(0人)
  • その理由を教えてください。

・場所の案内だけでなく、歴史的な人物や森、川(海)、過去と現在とのかかわりの中で、今も御嶽が残っていることを知ったから

・写真もたくさんあったし、前回聞けなかった部分が聞けた

・著名な箇所や人物の様子など参考にできた

・与那覇の地理的側面、考古学的な遺跡、遺物などの事例を詳しく説明されたので、大変興味深く聞くことができました。講師の方の深い知識とユーモアをまじえた話が大変参考になりました

・ウサンシー伝説について理解が深まった

・歴史的背景がよくわかる

・学びたい気持ちが高まったから

  • その他、ご意見、ご感想、質問などがあればご記入ください

・アーカイブ的に過去と現在および、他の地域との比較をしながらの説明は、イメージに残りやすく、与那覇地区の浦島伝説は記憶に残った。ありがとうございました。

・約1時間半、実際に歩いて見て回った感じがした。実際に歩かなくても、現地に行った感じがした。

・講師のプロフィールも紹介してほしい。

・神谷さんの説明がとても分かりやすくて、ありがたいです。ありがとうございました。

・基本的な概説書や参考文献などがあれば教えてください。

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県外のみなさん、地元ガイドと歩くディープな沖縄を ! 

 もう何度も沖縄へ来ているみなさん! 首里城、牧志公設市場、美ら海水族館といった有名観光地はすでに訪れましたよね。もっとゆったりとした気分で普段着の沖縄に触れてみたいと思っていませんか。そんなみなさんにお勧めしたいのが、南風原町観光協会の「まち歩きガイドツアー」です。生粋の地元出身ガイドとともに細い路地裏を歩きながら、地域の歴史や信仰、生活習慣を掘り起こしていきます。

 南風原(はえばる)町は琉球王国時代の王府・首里に近く、独自の伝統や文化を培ってきました。町内には12の字(あざ)・集落があり、町観光協会は月1回のペースで地域の史跡や名所を訪れる「まち歩きツアー」を実施してきました。史跡や名所といっても、地元の人以外はほとんど知らない場所です。普段着の沖縄人(うちなーんちゅ)の暮らしが表れているともいえるでしょう。ご案内するのは地元出身のガイド(地域ガイド)です。県外の方にとっては耳慣れない用語や生活習慣がガイドの説明に交じるかもしれませんが、地域ガイドをサポートして解説するコーディネーターガイドも一緒に回りますので、基本的なところから気軽にお尋ねいただけます。

 年度内のツアーは、開催の場所・日時は決まっています(変更になる可能性あり)が、その中から2件を選んでご紹介します。参加料はツアーによって異なりますが、1人あたり1,500~2,500円です。詳しい内容のお問い合わせやお申し込みは、南風原町の観光協会(098-851-7273 、https//www.haebaru-kankou.jp)または観光案内所(098-882-6776)へ。協会ホームページの「おすすめ情報」欄に「2024年度まち歩きツアー予定表」が掲載されています。

2024年度のツアー予定表一部抜粋

かすりコースターづくりと工房見学のまち歩き

 8月10日(土) 午前10時~午後1時

 8月24日(土) 午前10時~午後1時

 集合場所:琉球かすり会館(南風原町本部157、TEL:098‐889‐1634)

かすり(絣)とは、経(たて)と緯(よこ)の糸が交互に織り込まれる平織りの織物で、幾何学模様が特徴的です。インドから東南アジアを経て琉球(沖縄)に取り入れられ、「琉球かすり」と呼ばれています。琉球から日本へ伝えられ、「薩摩かすり」や「久留米かすり」に影響を与えたとして「日本のかすりの源流」ともいわれます。琉球かすりの生産が盛んな南風原町では、織物工房や糸張り作業場などかすり関連の施設が集まる地域を歩きながら、伝統の技術や作業工程を見学できます。琉球かすり会館では、好きなデザインを選んでオリジナルのコースター織づくりに挑戦します。

●戦跡ツアー(沖縄陸軍病院南風原壕群20号、津嘉山地域

 9月14日(土) 午前10時~午後1時

 集合場所:はえばる観光案内所(南風原町字喜屋武241‐1、TEL:098‐882‐6776)

沖縄戦では南西諸島を防衛する第32軍の司令部壕を南風原町津嘉山に建設する計画が立てられました。司令部機能は首里に移転しましたが、ここには兵器や食料など軍事物資や軍資金を管理する後方支援部隊が配備されました。証言などによれば壕の長さは全長2キロに及んだといわれます。また、町内には約30の横穴壕が造られ、沖縄陸軍病院が設けられました。軍医、看護婦、衛生兵ら約350人に加え、看護補助要員としてひめゆり学徒220人余りが動員されました。米軍が沖縄本島に上陸した後は、負傷兵が激増し女子学徒たちは医療器具や医薬品、食料が不足する中、凄惨な治療現場で懸命に働きます。陸軍病院に撤退命令が出されると、重症患者に青酸カリが配られ「自決」が強要されました。ツアーではこのような現場を訪れます。

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ガイド研修第1回を実施

 6月22日、南風原町の東新川災害時避難施設で第1回ガイド研修があり7人が参加した。最初、南風原町観光協会事務局から地域ガイドとコーディネーターガイドの役割、「まち歩きツアー」に関する昨年度の実績や今年度の予定について説明があった。続いて、観光協会前事務局長の藤原政勝氏が、観光協会設立の経緯に加え、沖縄陸軍病院南風原壕の平和ガイド事業やかすりロード盛り上げ隊などについて振り返った。この後、かすりロードや農業関係のツアーについて参加者から藤原氏に質問があった。

この日の参加者に対してアンケートを実施したところ、参加者全員から回答を得られた。

  • 本日の講座はいかがでしたか?
    • よく理解できた(7人) ②まあまあ理解できた(0人) ③あまり理解できなかった(0人)
  • 今回の講座の内容は、実際のガイドに活用できそうですか?
    • 大いに活用できる(6人) ②活用できる(0人) ③あまり活用できない(0人) ④活用できない(0人)
  • その理由を教えてください。

・地域ガイドとコーディネーターガイドの役割を理解できた。

・地域ガイド誕生のいきさつを知り、コーディネーターガイドもセットになることを誇りに思いました。「ばかもの」「よそもの」がイベントなどを作り上げることを確信しました。「ガイドパンフレット」「字マップ」作成までのいきさつ、平和ガイドのみなさんの活動に対して理解が深まりました。

・「ふぇーばる物産展」から見える、手づくりの力、情熱の力について考えさせられました。

・藤原さんのお話はとても頭に入りやすかった。ガイドの説明においても新しい視点で見直したいと思った。

・観光協会の歴史がよく理解できた。

  • ご意見、ご感想、質問などあればご記入してください。

・地域資源の説明板を設置してほしい。観光協会、役場、地域などの話し合いが必要。宮城の例のように。

・神谷さんの説明がわかりやすくていねいでよかったです。

・「名所・旧跡だけが観光地ではない」「イベント、体験、伝統行事、つくりあげる観光地」「ふれあえる観光地」「若者、馬鹿者、よそ者がつくる」……どれも大賛成、共感し、真理だと思います。私が町づくりにいつも思うのは、各県、各まちの「ないものからつくり出す力」が感動を呼び人を集めることです。

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神里まち歩きツアーを開催

 南風原町内からの3人に加え、名護市、南城市、那覇市、うるま市、石垣市など県内各地から申し込みがあり、計11人で神里まち歩きツアーを開催しました。最初は構造改善センター(公民館)でガイドから地域の概要について説明がありました。次に、4つの門中の骨神(フニシ、遠い祖先の遺骨)を祀った祠に移り、戦時中に拝所の移転・再編が行われた歴史が語られました。続いて、神里の始まりの地といわれるナカシモーを訪れ、名木100選に選ばれたガジュマルの大木を眺めました。奉納行事を終えた獅子を洗い清めたというシーシガーなどに立ち寄った後、沖縄県鉄道(軽便鉄道)糸満線の爆発事故現場近くへ行きました。1944年12月、列車に積んだ弾薬やガソリンへ火の粉が飛び散って引火し、同乗していた兵士や女学生ら約200人が死亡、この付近では肉片が広範囲に飛び散るなど凄惨な事故の模様がガイドの口から語られ、参加者はじっと聞き入っていました。
 この後、産湯や飲水に使われたという井戸・ウブガーや、門中・シーリー(世理)が管理し6月ウマチーが行われる上間之殿(イーマヌトゥン)に立ち寄った後、上ノロ殿内(ウィーヌンドゥンチ)を訪れました。ここではノロが司る火の神が安置され、旧盆や十五夜のシーサーケーラシーなどの行事が行われたといいます。次の神里之獄(ウガンモー)では、『琉球国由来記』に記された拝所であり、現在では周囲はグラウンドなどに整備された経緯が語られました。シーサーウクイモーでは、獅子(シーサー)の新旧交代式が行われ、古い獅子が燃やされたことなどが説明されました。最後に、公民館に戻って獅子の実物を見学しました。参加者全員とガイド、スタッフ全員で記念撮影をしてアンケートを記入した後、解散となりました。

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Walking Tour on The Kasuri Road かすりの道モニターツアーを開催しました(外国人・英語圏向け)

The hallmark of Ryukyu Kasuri (ikat, one of traditional textile fabrics) is said to be the diversity of designs, which number about 600 and are based on geometric patterns. Originating in India and spreading through-out Southeast, kasuri entered Okinawa Islands from 14th to 15th, when the islands were ruled by the Ryukyu Kingdom.

“Walking Tour Kasuri Road” was held in Haebaru Town, Okinawa on February in 2024. 14 people participated in the tour and strolled around the kasuri- related area for three hours. Firstly, in the Ryukyu-Kasuri Hall, the guide gave them explanations about the hall and the history of kasuri. Next, the participants visited the Ijunga Park , where some trees used for dyeing are planted. In Marumasa Textile Studio, its craftsperson showed them some types of kasuri fabrics. In other studios , they saw the process of tying the kasuri pattern, dyeing threads, and how to make a weaving machine. Furthermore, they enjoyed the landscape of the traditional Okinawa house and the tiles with typical kasuri patterns on the walls of the Kasuri Road.

 かすりの道モニターツアー(外国人対象)は2024年2月、南風原町で14人が参加し開催されました。最初にかすり会館でかすりが伝わった経緯について、イジュンガー公園では染色に使用される木々について、ガイドの皆さんが説明されました。丸正織物工房では、職人さんが反物を1枚ずつ広げながら反物について、大城廣四郎織物工房では、職人さんが絣くくり作業や染色作業について、大城織機製作所では、一台の織機を作り上げる作業を実演しながらそれぞれ説明されました。

 また参加者の皆様は、かすりの道沿いにある壁面模様や道に敷かれた赤瓦や模様の説明を受けたり、観たりしながら色々な道沿いの風景に感動してました。また初めての外国人対象のツアーでしたが、コーディネーターガイド・地域ガイド・通訳・職人さんがそれぞれの役割を果たしたお陰で喜んで頂けるツアーになりました。